〈仏教3.0〉でスッキりする! その10

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する9回目として、藤田師の坐禅に関する主な著作をとりあげました。その記事はこちらです。ここまで、当初予定を超える長尺シリーズとなってしまいましたが、筆者としては単にお伝えしたいことが多かったというより、両師への共感が記事の長さに表れたと感じています。今回は最終回として、「アップデートする仏教」の意義をもう一度振り返ってみたいと思います。

サンガジャパン Vol.20 特集「これからの仏教」仏教を”アップデートする”とはどういうことかを見てきましたが、そもそも仏教を宗教としてでなく、科学に近いものと捉えれば、アップデートの語感を納得できるかも知れません。この「仏教は宗教ではない」という主題は、テーラワーダ仏教長老のアルボムッレ・スマナサーラ師が著作のタイトルに使うほど各所で述べられていることですので、ご存知の方も多いでしょう。山下師もまた、宮沢賢治の言葉を引用した「信仰と化学がひとつになる時代ヘ」という一文を発表しています(サンガジャパンVol.20;2015年4月刊)。藤田師も別の場所で、「わたしの言ったことだからというだけで鵜のみにしてはいけない。自分の経験に照らしてよく吟味しなさい」というブッダの言葉(『カーラーマ・スッタ』より)を紹介しています。藤田・山下両師の「アップデートする仏教」はこれらの論旨の流れに沿ったもの、というわけです。(下線は筆者)

日本仏教の現状は(他の伝統宗教にも同様の傾向があるのかも知れませんが)、いわばアップデートを拒否し、固定化・形骸化して本来の意味を失い、人々の「仏教離れ」をなすすべなく見送るだけとなっています。両師は、30年余の検証を経て、そうした仏教を〈仏教1.0〉と位置付けました。両師は出家以来、禅仏教の理論学習と実践の日々を重ね、やがて米国やミャンマーなどで問題解決のメソッドを提供するテーラワーダ仏教などに出会い、これを〈仏教2.0〉とします。それから後も、自らの修行や指導を通じて新たな知見を加え続け、「実践(実験)と検証」を積み重ねていきます。そして、やがて批判的かつ建設的に〈仏教1.0〉を乗り越え、さらに〈仏教2.0〉に内在する課題を解決しようとする両師の軌跡は、明らかに宗教家らしくなく、どちらかと言えば科学者のそれに似ていると思えるのです。

Photo: Burmese-Pali Manuscript Asian Collection /CC BY 4.0 by Gallery: https://wellcomeimages.org/indexplus/image/L0067947.html

また、両師の活動には多くの場合、経典のパーリ語訳、漢訳、日本語の古典、現代日本語、そして英語(やその他の西洋語)といった多言語の障壁でできあがった時空世界を往還するという困難なプロセスが、多かれ少なかれ付随しています。それは付随的であると言っても、単なる論文や文学作品の翻訳などとはやや異質の、高度な翻訳的作業であろうと想像できます。両師がこれからも果たしていくべき一つの重要な役割は、ティク・ナット・ハン師らの先駆者が示した模範に習って、現時点においては〈仏教3.0〉と名付けているところの、本来の仏教のあり方を現代の言葉できちんとわかるように表現して伝えていくこと、そのような新たな言語化の試みに他ならないでしょう。本書の中身を振り返ってみれば、こうした作業が今のところ順調に滑り出していることがよくわかります。

一照 僕らがずっと話してきでいる見聞覚知の主体は、要するにエゴとか我とかと言われているものなんだね?普段われわれが「俺、俺」と言っているやつ。
良道 そうです。
一照 じゃあ、それとは別の主体はどういう名前で呼ばれているの?
良道 これはいくらでもあるじゃないですか、仏教の中では。でも正直言うとそういう仏教用語では言いたくないので、わたしはいま「青空」という言い方をしてます。仏教用語を使うと、何となくわかったような気にさせられてしまうからです。そうするとまたシンキング・マインドの罠に落ちてしまう。
一照 青空か。すると見聞覚知の主体はそこに浮かんでいる雲ということになるね。
良道 そう、シンキング・マインドは雲に当たります。それを浮かばせている青空が瞑想の主体だというのがわたしの言いたいことなんです。
(第5章より)

Photo by Marloes (tussenpozen) – Thich Nhat Hanh in Vught, The Netherlands (2006) /CC BY 2.0

すこし繰り返しますが、両師は、ティク・ナット・ハン師らが欧米での布教ツールとして磨き上げてきた、英語による仏教実践理論その他を新たな知見として取り込み、自らの実践(実験)を通じて自家薬籠中のものとしつつ、それをまた理論にフィードバックして言語化するといった、科学的な実証サイクルに似た活動スタイルを持っています。さらに、藤田師は米国と日本を行ったり来たり、山下師に至ってはミャンマーやスリランカでの研鑽に見られるとおり、地球的な行動半径を持っていることも一つの特徴です。

また、両師は、上で述べたように活動しながら、必要なときにかれら自身の原点、すなわち道元禅師の教えに立ち戻ることを忘れていません。両師は〈仏教1.0〉の古典的な基礎知識を土壌として、20代で出家してすぐの時代に、兵庫県山中の安泰寺で道元禅師の教えを徹底的にたたき込まれており、そのことがかれら自身の揺るぎない土台を形成し、原点になっていると理解できます。そして両師には、テーラワーダ仏教であれ何であれ、新たに獲得したどんな知見についても、いずれかの時点で必ずその原点とつき合わせるという、研鑽上の基本的姿勢を見ることができるのです。

一照 青空ね。息を見る主体は雲じゃなくて青空なんだ。良道師は使いたくないって言ってるけど、あえて聞くんだけど、伝統的に仏教で、”仏性”と言ったり、”本来の自己”と言ったり、”非思量”、”無分別智”とかと言われているものだと理解してもいいの?
良道 そうですね。 (第5章より。下線と””は筆者)

一照 良道師のワンダルマ・メソッドにしても、僕のいまの坐禅の理解や指導法にしても、これまでの話からすると、期せずして二人は安泰寺で学んだことを出発点にしてアメリカやビルマといった海外での経験を経て同じ地点に辿り着いているみたいだね。それが「仏教3.0」だと。道元禅師が坐禅は三界の法じゃないとか、習禅じゃないとか坐禅は「不染汚(ふぜんな)の行」なんだということを繰り返し言っているのも、要するに「仏教3.0」のことを指摘していたんだと思う。僕もそういう問題意識で改めて中国の禅の語録や『正法眼蔵』を読み直して初めてそれが見えてきたからね。道元さんの著作の中にある強為や云為といった言葉に眼が向いたのもそういう読み直しの中でだった。なんだ、もうちゃんと「仏教3.0」のことを言われてたんだ、という感じ。ブッダの教えもちゃんと読んでみればもちろん「仏教3.0」なんだし。

良道 わたしもテーラワーダを通って出発点だった道元禅師に再び出会ったという気がしてます。なるほど、あれはそういうことだったのか、でも昔はそこまで全然読み取れてなかったなという思いですね。曹洞宗のお坊さんだったときに散々読んだけど正直まったく理解できなかった『正法眼蔵』をこれから「仏教3.0」というまったく新しい視点で読んでいきたいと思っています。
(第6章より。下線は筆者)

さて、「アップデートする仏教」への興味は、これからも尽きることはないでしょう。なぜならば、〈仏教3.0〉はおそらく両師自身もそう考えているように道半ばであり、『正法眼蔵』とのつき合わせがまだ一段落していないことからもわかるように、さらに多くの実践(=実験・実証)や追加検証、あるいはマイナー・アップデート等を必要としているからです。また、〈仏教3.xx〉あるいはその先の〈4.0〉といった仏教の将来形には、わたしたち”衆生”もこれまでのように受け身で傍観するだけの立場から、山下師の新たな瞑想法や藤田師の現代坐禅を学んで実践してみることを通じて、アップデートそのものに能動的に参画していく道が開けている、という意義を強く感じるからです。

〈仏教3.0〉を哲学するこうした将来に向けて、両師の役割はますます重要となっていくでしょう。基本的には、ここで紹介してきたような意欲的な活動を、今まで通りオープンに続けていただくことですが、その中には、伝統仏教はもとより、できれば、哲学や精神医学、生命科学などとの交流を通して「アップデートする仏教」を垂直的に深掘りすること、それと共に新たな言語化の試みにさらに磨きをかけていただくことなどが挙げられます。その意味で、すでに一つの快挙があったことをご紹介しますと、両師が気鋭の哲学者、永井均氏を迎えて行なったスリリングな鼎談が「〈仏教3.0〉を哲学する」(春秋社;2016年)という刺激的な一冊になっています。同書を「アップデートする仏教」や、両師の主な著作と合わせてお読みいただくならば、理解も面白さも一層深まることは確実です。

また、世の中には、筆者を含め〈仏教3.0〉の将来性に期待して穏やかに見守っていく人もいれば、それよりは厳しい目で〈仏教3.0〉の真価をあえて問うという立場も当然あるかも知れません。とくに〈仏教3.0〉に自分の治療を託そうとする患者・当事者は当然真剣にならざるを得ないし、また「医療行為が行われていない不思議な病院」と言われた〈1.0〉や、人々に向き合う対処法の限界を指摘された〈2.0〉といった立場にあれば、〈仏教3.0〉に対して厳しい視線を向けがちとなるでしょう。端的には、〈仏教3.0〉がどれほど普及し、その実践によってどれほどの治療効果が得られたかといった見方もされるでしょう。また、そういう状況を一般の人が眺めるとき、〈仏教3.0〉を一種のブームや新興宗教のようなものと、誤って解釈する人も出てこないとは限りません。

したがって、この先、両師はどのような戦略で進めていくのが良いか、ということになります。筆者としては、すでに申し上げた「垂直的な深掘り」と「言語化」に加えて、実践プログラムをほんの少しずつでも日々アップデート(改良)していく心掛け、(具体的に誰かはわかりませんが)ステークホルダーに対してきちんと情報発信していくこと、適切なメディアを選択すること、できれば〈1.0〉〈2.0〉の中にもひとりふたりと理解者を見出し増やしていくこと、また、全体として焦らずじっくり取り組んでいくことなどを提案したいと思います。両師の〈仏教3.0〉はすでに相当な成果だと思いますが、その成果も一部のサークル内に留まったままでは惜しい気がします。まことに僭越ながら、両師には、これから先も着実に足下を固めつつ、世の中に向けてできるだけ広く、水平展開していくことにもぜひ成功していただきたいと願っています。

藤田・山下両師の「アップデートする仏教」を中心にご紹介してきた記事シリーズ、「〈仏教3.0〉でスッキりする!」は、ここでいったん区切りとさせていただきます。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。