〈仏教3.0〉でスッキりする! その9

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)の8回目として、山下師のワンダルマ瞑想法と、藤田師の現代坐禅法のそれぞれごく一端をご紹介しました。その記事はこちらです。
今回は、藤田師の坐禅に関する主な著作をとりあげます。

禅の教室 坐禅でつかむ仏教の真髄 (中公新書)藤田師は、自ら唱導する坐禅のあり方・やり方について「禅の教室 坐禅でつかむ仏教の真髄」という一般向けの入門書を出しています(中公新書;2016年刊)。「そもそも禅てなんですか?」などと、同世代の詩人、伊藤比呂美氏が繰り出す無遠慮と言ってもいいような質問に対し、藤田師がひとつひとつ丁寧に応えていく対話形式の本です。二人の軽妙なやりとりによって、難しい仏教概念が少しずつひも解かれ、たいへん面白く読むことができます。とくに、師が米国での指導経験を通じて磨き上げてきたユニークな言葉づかいや表現のわかりやすさは、難解な仏教解説書や法話に接してきた日本の一般読者にとってきわめて斬新なばかりでなく、今までギブアップしていた仏教に対する理解をぐっと身近に引き寄せてくれるでしょう。そうした特徴が表れた部分を少しだけご紹介すると・・・

たとえば、師は「縁起とは、つながりだ」と述べています。わたしたちは普通、「点みたいな自分が中心にいて、自分とは別個の人や物がその周囲にやっぱり点みたいにバラバラと実体的に存在する」と受け止めていますが、そうではなく、世界はネットワークとして「最初からすべてがつながって存在している」のであると。また、その”つながり”は因果、つまり原因と結果という 「一方的で単線的なつながりではなくて、縁という間接的な条件も考慮に入れたもっと複雑でダイナミックなつながり」であり、師の言葉では”関係性のネットワーク”と表現できるもの、それが「縁起という教え」であるとします。さらに「そういう在り方で自分も含めて宇宙ができて動いていることを初めて発見して、それを表現した」のがシッダールタ(ブッダ)であると述べています。(下線は筆者)

次に、師の実践坐禅論については、前回も「アップデートする仏教」からその一端をご紹介しましたが、この「禅の教室」からも読みどころの一部を拾ってみたいと思います。たとえば、師は「坐禅は苦行になってはいけない」と語り、わたしたちが坐禅に対して日頃感じているような「敷居の高さ」をずいぶんと減らしてくれます。

一照 ・・・このときに彼(シッダールタ)が樹の下で坐ったのと同じことを、僕らがそれぞれの坐蒲の上でやるのが「坐禅」なんですよ。毎回坐禅するたびに、シッダールタが樹の下でやったあの革新的な営みを今ここでもう一度自分の身心で再現するのが坐禅の在り方じゃないかと、僕は思ってるんです。
比呂美 もらった乳がゆをおいしく飲んで、敷き藁を敷いて快適に、体を清めてスッキリして、つまりそういうよい状態で坐ることが革新的な坐禅へつながったんなら、私たちも、あまり蒸し暑い部屋の中で我慢してやったりするのは、坐俸としてはよくない?
一照 そうですね。だから道元さんは、夏は涼しく、冬は暖かくして坐れといっている。(中略) 苦行はしなくていいんです。「坐禅は安楽の法門なり」と言うように、坐禅が苦行になってはいけないんですよ。
(「禅の教室」序章より)

また、藤田師は、坐禅とは「外から他律的に秩序を押しつけて、外的拘束によって秩序を作りだすこと」ではなく、「まわりの環境条件とやり取りをしながら花が内側から咲くように、自由の中から秩序が生まれてくるのを邪魔しないでじっと見守っているようなこと(*)」であると解説しています。わたしたちは坐禅について、型通りに、辛くとも我慢しながら固まったようにじっと坐り続ける状態をイメージしがちですが、そういうのは坐禅本来のあり方ではないと、師は明言します。(*:坐禅を”ポイエーシス”〈ギリシャ語でポエムの語源〉になぞらえた藤田師一流の表現。下線は筆者)

比呂美 そうしたら、坐禅を始めるときに坐ってこんな感じでもぞもぞ動いていても、最初は仕方ないのね。そのうちに段々動かなくなってきて・・・。
一照 はい、でも、実際はそんなに大きな動きにはならないはずです。外からは見えないぐらいに徴妙な動きを通して、各部位が最終的な落ち着きどころを探していきます。
比呂美 自然のままに、体にとって一番のところを探す。
一照 揺らぎながらね。たとえば30分坐るなら、30分全部揺らぎながらでもいいから、より良い坐相にどこまでも肉迫していく
比呂美 坐りながら、揺らぎながら探すわけですね。
一照 より良い在り方を探し続けながら重力と仲良くダンスしながら坐っているのが坐禅なんです。(同)重力とのより良い、フレンドリーな関係。重力でも、床でもいい。
(「禅の教室」第2章より。下線は筆者)

このあと、二人のやりとりは、「重力を作りだしているのは私の重さと、地球の重さとの関係」だから「私は重さを介して地球とつながって」いる。それこそ「まさに縁起のひとつの現れ」である、というふうにダイナミックに展開していきます。読者は、こうした対話を楽しむうちに、いつの間にか「仏教の奥深さ、禅の魅力、坐禅の醍醐味」などを、藤田師から受け取っているという仕組みです。出版社のコピーに「読むと坐りたくなる」とありますが、「禅の教室」は、読者をまさにその通りの気分に導く好著だと思います。

現代坐禅講義―只管打坐への道もう一冊、ご紹介しましょう。藤田師は、上記の「禅の教室」の出版に先立つ2012年、師独自の坐禅探究の集大成というべき「現代坐禅講義 ― 只管打坐への道」(佼成出版社)を発表しました。ここまでごく断片のみをご紹介してきた師の実践坐禅論を、中級者以上向けに詳述した本格的な著作ですが、僧侶や異種専門家ら5名との対談を各章に付すなど、これもまた面白く読める構成になっています。興味を覚えた方はぜひ「禅の教室」と併せてお読みいただければと思います。同書の中身は、現時点の筆者にとってはハードルが高過ぎるため、これ以上のご紹介を控えることにしますが、ここではそれに代えて、「アップデートする仏教」の中で、藤田師自身が同書について語っている部分を引用させていただくことにします。

一照 ・・・ここ十数年で日本にも定着しつつあるヴィパッサナーやマインドフルネス、それから伝統的な坐禅についても、理論面、実践面で、これまで話してきたような「仏教3.0」の観点から根本的な洗い直しの作業をする責任というか使命が僕らにはあるよね。2012年、僕は『現代坐禅講義』という本を出したんだけど、題に「現代」とつけたのは、現代という時代にちゃんとアップデートした坐禅の話をしなくては、という問題意識からだったんですよ。坐禅についていままで言われてきたことをわかりやすく言い直すだけじゃなくて、ほんの一歩でもいいから踏み込んだ表現をしようとしたんですよ。結局それは、良道さんと同じくブッダの樹下の打坐に立ち戻るということでもあるんだけど、そこでも坐禅は意識主導で行う単なるメソッドじゃないということが一つのポイントになってる。あれを書いているときはそういう表現は頭になかったけど、今から思うとまさに「仏教3.0」の坐禅の本を書こうとしていたということになるね。まだまだ書くべきことは残っているんだけど。
(「アップデートする仏教」第6章より)

さて次回は、この記事シリーズの最終回のつもりです。「アップデートする仏教」の意義をあらためて振り返りながら、若干の補足を試みます。

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その10」 につづく。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。