〈仏教3.0〉でスッキりする! その8

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する7回目として、山下師の「青空体験」を契機とするアップデートの方向性について触れました。その記事はこちらです。

Thich Nhat Hanh at Hue City, Vietnam (2007)

瞑想や坐禅で最も大事なことは、はじめからシンキング・マインドを手放すことだとわかりました。山下師による「雲と青空」の喩えを用いると、雲(シンキング・マインド)がやっていれば〈仏教2.0〉、雲が脱落し、そこにもともと広がっていた青空が呼吸を見たり、坐禅をするのが〈仏教3.0〉ということになります。では、シンキング・マインドを手放すには、具体的にどうすればいいのか。山下師はミャンマーからの帰国後、〈2.0〉で行き詰まっている人や新たに瞑想を学びたい人たちに向けて、独自のワンダルマ・メソッド(瞑想法)を体系化するのですが、その一つの契機となったのは、ティク・ナット・ハン師による「カーヤ・イン・ザ・カーヤ」という深遠な意味をもつ指摘でした。

ブッダの〈気づき〉の瞑想良道 ・・・体のことをパーリ語で「カーヤ」と言いますが、カーヤをどう見ていくかをお釈迦様はこう教えていらっしゃる。「カーヤ・イン・ザ・カーヤ(体の中で体を見る)」と。(中略)「四念処経」、パーリ語では「サティパッターナ・スッタ」。その中にちゃんと書いてあります。だけど、この体の中で体を見ることの深い意味が今まですっきりとしなかった。現代の瞑想の先生の中で、これをいちばん明確に話していらっしゃるのが、ティク・ナット・ハン師です。ティク・ナット・ハン師は「Transformation And Healing」(邦訳『ブッダの〈気づき〉の瞑想』)の中でそこをきちんと解説しています。
(第4章より。下線は筆者)

青空としてのわたし本当の自分とつながる瞑想入門山下師のワンダルマ・メソッドは、―― 1.体の微細な感覚を見る瞑想、2.慈悲の瞑想、3.呼吸瞑想 という3種類の瞑想で構成されます。この3点セットを実践していくことによって、基本的には誰もがシンキング・マインドを手放したうえで「わたし=青空」の世界を開くことが可能であると教えています。本書の第4章と巻末付録にはメソッドのエッセンスが紹介されており、また本書の一読後、さらに詳しく学びたくなった方には師の2点の著作が参考として供されています。――自伝的な書き振りの「青空としてのわたし」 (幻冬舎;2014年)と、初心者向けに編集された「本当の自分とつながる瞑想入門」(河出書房新社;2015年)という2冊です。これらに説かれていることをどのように実践に活かすかは各々の読者次第ですが、少なくとも師の30年余におよぶ修行体験が凝縮された内容は瞠目に値すると言っていいでしょう。

ところで、筆者は前回、はたして自分のような”凡夫”に青空が見える可能性はあるのかという素朴な疑問を述べてみましたが、それに対する山下師の答は以下のように明快です。

良道 ・・・そんなに大げさな大事業ではないんです。わたしのメソッドでは体の微細な感覚を見ることで、シンキング・マインドが落ちて、青空の自分を体認できるんです。だからやれば誰にでもできることで、特別な才能や長い時間などはいりません。そしてこれこそが、われわれの師匠である内山老師が生涯言われ続けた「思いの手放し」の究極の意味ですよ。

一照 それは、拍子抜けするみたいな返答だね(笑)。
(第6章より。下線は筆者)

この対談では、藤田・山下両師とも仏教をアップデートしていく必要があるという認識で一致していますが、一方の山下師が〈仏教3.0〉をラディカルに体現しつつある立場というのに対し、もう一方の藤田師は曹洞宗という〈仏教1.0〉に軸足を残した立場で、どちらかと言えば対談の”聞き役”や”調整役”に回ることが多いという印象です。藤田師は、遺漏のないようスムーズに話を進めるだけでなく、難解な箇所を一般読者にわかるように噛み砕いたり、ときには独特のユーモアで包み込むといった、巧みな対話術を披露しています。また師は、禅僧として独自に探究を続けている坐禅のやり方についても、自分の専門でありながらごく控えめに語っているところがかえって印象的です。

一照 ずいぶん長く良道さんの話を聞いてきたけど、僕の坐禅のやり方についての結論もまったく同じですね。面白いくらい良道さんと共通するところに辿り着いてる気がする。たとえばいま息でいうと、「わたしは自然に息してるからもうこのままでいいです」と言うんだけど、そのときの自然というのは本当の自然ではなくて、僕は「普通の息」って言っています。普段にやってる息。これは、実は非常に不自然な息なんですよ。(中略)これじゃいけないということに気がついた人がどうするかというと、今度は呼吸法のほうへ行くわけね。

呼吸法とは、呼吸=息のしかたを対象的にコントロールしようとする技術体系や訓練法などを指しますが、それを、シンキング・マインドを無理やり手なずけようとする立場で行なえば、うまくいかないのは当然です。「多くの場合、坐禅もそういう立場でやったりしているし、そういうレベルで教えられている。外側から一方的に姿勢はこうしろとか、息はこうしろとか、心はこうであれというような形で、坐禅の姿勢・息・精神の理想状態を夢見ながら、いまの呼吸なり息なり心なりを対象的にコントロールしようとする」ので、大変つらい大仕事になってしまいます。そこで藤田師が模索するのは、「普通の息」でもなく、呼吸法でコントロールしようとするのでもない「第3の道」です。またそれは、師の〈仏教3.0〉へのアプローチを意味しています。

一照 ・・・具体的にどういうことなのかといえば、息に関して言うとよくわかるんだけど、体があくまでも自然にやっている息をコントロールしようとせずに親密な注意が注がれている、コントロールしないでありのままの息を深く感じているといった状態なんですね。これがマインドフルな呼吸ということになる。(中略)自然に起きている息の状態にそういうコントロールしようというつもりのない繊細な注意が注がれていて、息が深く感じられていると、体はそれをフィードバック情報として素直に受け取って、自前の呼吸調整メカニズムで息の質が自ずと改善されていく、それをまた注意がフィードバックしてというふうに、息と注意が螺旋的に深まっていくプロセスが進行していきます。こちらは体を信頼して、安心して任せてるんですよ。わたしはこういうあり方を「(ありのままの状態を)感じて、(自ずと起きてくる動きを)許す」と言うんですけどね。ありのままを感じていると、自然な変化が起きてくるから、それを押さえたり邪魔したりしないで起こるままに、それを許すということです。(同)

僕はこれが本来の”調”と思っていて、坐禅はそういう意味の調身・調息・調心でやっていかないとダメだろうというのがいまの僕の考えなんですよ。どうですかね? (同)僕らは「調」をこの俺が何かに対して行使するコントロールの意味で理解してて、要するに「一方的支配・管理」という意味で理解してるけど、それは間違いだと僕も思っている。ブッダが言った「よく調えられし自己」というときの「調」というのは、この第3のアプローチでいかないと絶対に成立しないというのが今の僕の考え方です。”正身端坐”とか”只管打坐”というのはこの意味の「調」でやらなきゃいけないということです。
(第4章より。各下線と””は筆者)

Photo by Ken Wieland – The Mahabodhi Tree in Bodh Gaya. (2009) /CC BY-SA 2.0

藤田師ならではの誠実さ溢れる口調や表現を少しでもお伝えしたいということから、ちょっと長めの引用となってしまいました。師は、いま多くの坐禅堂で行なわれている坐禅をさほど強くない口調で批判しつつ、ここで述べている「第3の道」こそブッダが菩提樹の下で行なった打坐に違いないという確信から、その追体験としての坐禅(=道元禅師の”只管打坐”の教え)に戻るべきであると、穏やかに、またきわめて力強く説いています。なお、付記として、坐禅の由来は、師が述べるようにブッダではなく別にあるという説も聞かれますが、曹洞宗の禅僧である師の確信(=信仰)に対して何ら影響を与えるものではないでしょう。

本書の巻末付録「坐禅のやり方」に、藤田師の基本的な考えが簡明にまとめられていますが、もっと深く、あるいはもっと具体的に知りたいという方も多いと思います。そこで次回は、〈仏教3.0〉の文脈からそう離れてしまわない範囲で、藤田師の坐禅に関する主な著作をとりあげてみたいと思います。

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その9」 につづく。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。