〈仏教3.0〉でスッキりする! その7

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する6回目として、「シンキング・マインド」の問題に触れました。その記事はこちらです。 ここまで恥ずかしげもなく長々と記事を書いてきましたが、ここから先、ますます”凡夫”の理解を超えた内容に触れていこうとしています。(ただし、経験豊かな皆さまにとっては、周知の事実に過ぎないかも知れません)

前回までに、「”I”;私」=「自分」=「シンキング・マインド」では呼吸を見ることができない、というところまで来ました。両師によれば、自分という主体が「呼吸を見る」ことは、どうやってもあり得ない。しかし、瞑想のメソッドによって、「呼吸が見えている」状態に達することは実証されている。すると3段論法で、その「呼吸が見えている」ときは”いままでの自分”もしくは”普通の自分”ではない別の主体、”本質的な自分”のような主体によって「呼吸が見えている」ことになる。では、その別の主体とは一体何だろうということになります。

ここから話を進め易くするため、一旦、結論的なことのご紹介になります(本書の構成上も、全6章の第4章で結論が先に紹介されます)。山下師はそもそも、自分の病気である「思い(シンキング)の過剰」を治癒するために「思いの手放し」の修行を続け、その延長で40代半ばに本場ミャンマーでの修行に臨みます。そして最終的に、内山興正師にいわれた「思いを放つ」ことができました。それは同時に、ティク・ナット・ハン師のいう「マインドフルネス」を実感したという意味であり、また山下師自身の表現では「シンキング・マインドを手放す」ことができたわけです。

山下師は、シンキング・マインドが落ちた後に残っているものこそ「呼吸を見る=呼吸が見えている」主体であるとします。師は、その主体にすてきな名前を付け、世の中の人々に伝えることにしました。すなわち、そのときの「わたしは”青空”」であると。

良道 ・・・確かに自分は、シンキング・マインドと肉体を持っているけれど、それが自分のすべてではなかった。シンキング・マインドと肉体に決して還元されない何かがある。いままで決して見えなかった自分の本質がついに明らかになった。このあたりを説明するのに、わたしは雲と青空の例をしばしば使います。形のある雲と、形のない青空。シンキング・マインドと肉体でできた自分を雲とすると、いままではずっと自分は雲だと思って生きてきた。ヴィパッサナー瞑想を始めてからも長い間、雲である自分が、別の雲を客観的に観察するのがヴィパッサナーだと思い込んできた。だけど、あるとき雲が一斉になくなってしまった。青空だけになってしまった。だけど不思議なことに、青空だけになった青空をきちんと認識できているわたしがいた。もしわたしが雲だったならば、雲がなくなってしまった後の青空を認識はできないはずなのに。

一照 そうですね。認識する人そのものがいなくなるからね。認識の主体は雲しかないという前提に立っていたら、雲がなくなって青空を認識するということは説明ができないよね。後は青空そのものが青空自身を認識しているとしかいえない。(第4章より。下線は筆者)

山下師が「パオ・メソッド」を学んだ場所ではコース完了者が1%しかいない、という話が前に出てきました。コース完了者は瞑想の中で青空を経験したはずですが、師によれば、不思議なことに「わたしとは誰か (Who am I ?)」という認識がそれまでと変わらず、師のように「わたし=青空」という世界を開けない人が大勢いたとのことでした。なぜその人たちに世界が開けず、自分には開けたのか、ということに師自身も当初かなり戸惑ったようですが、本対談では、それについて考察した内容を次のように語っています。

道元禅師

良道 ・・・それはまさにそのことを30年前からわたしはたたき込まれていたからなんですよ。道元禅師も最初から「お前は青空だぞ」と言われていますね。「お前は青空、だから、坐禅したらすでに仏なんだよ」と。だから修行と悟りが一緒なんだよと。だから、威儀即仏法、つまり日常の行為そのものが仏法なんだよと言ってるわけです。30年前、わたしたちが道元禅師の伝統のもとで修行を始めたとき、そういうことを繰り返し言われていても全然ピンとこなかったですよね。ところが、ようやくビルマでの修行の最後のどん詰まりまで来て、初めてそれが腑に落ちたんです。本当にピンときた。その道元禅師の世界観がわたしの中にすでにあったから、青空の世界に出合っても一切混乱に陥らずに、一気にそこをくぐり抜けて「わたし=青空」の世界に出ることができたと思うんです。・・・ (第4章より。下線は筆者)

山下師は、禅僧からテーラワーダの比丘へと転じた人ですが、禅僧の時代に積み重ねた(ただし当時は言葉でしか理解していなかった)大乗仏教の教えが、ミャンマーでの修行の最終段階にきて師の内奥ではじけ、「初めて自分の体験としてリアルに理解できた」と述べています。師の立場はこのとき以降、「大乗仏教でもテーラワーダ仏教でもなくて、二つを両方とも押さえた『ワンダルマ(一法)仏教』というもの」に再び転じました。ワンダルマとは、大乗とかテーラワーダに分かれる以前の法であり、両者が統合された次元の法ということもできます。すなわち、ここにきて、瞑想指導を中心とするテーラワーダ仏教のあり方〈仏教2.0〉から、〈仏教3.0〉へのアップデートが、「青空体験」を経た山下師自身の中に起こったのです。

さて、〈仏教2.0〉で行き詰まっている人たちにとって、一人でそこを乗り越えてみせた山下師の快挙は朗報であり、先例として学びたいとするのは当然でしょう。ただ。”凡夫”としては素朴な疑問も湧いてきます。はたして自分に青空が見えるという可能性はあるのか。「見たいと思う者には見えない」とすると、やっぱり自分には見えないだろうな。青空どころか自分の呼吸さえ見えないだろう。山下師が辿ったような修行は自分には到底無理だし・・・すると、やはり自分は〈仏教2.0〉で行き詰まるところまでしか行けないのではないか・・・等々。これらのすべてが、まさにシンキング・マインドの仕業であるとは理解できるのですが、さあ、このあと一体どうすればいいのでしょうか、両師!

良道 ・・・実はそんなヴイパッサナー瞑想の最後の段階まで行かなくても、呼吸を見るというイロハのイの瞑想ですら、青空から呼吸を見ると言ったほうが遥かに本質を突いているんですよ。つまり、初歩の初歩からもう青空の立場で瞑想するべきだということなんです。なぜ今まで多くの人が呼吸が見ることができなかったかと言うと、やっぱりみんな雲である自分で見ようとしていたからです。つまり、シンキング・マインドで見ようとしていた。・・・ (第4章)

答はすでにありました。わたしたちにも「シンキング・マインドを手放す」具体的な方法を学ぶことができるようです。次回は、山下師による自らの体験を踏まえた「ワンダルマ・メソッド」、また藤田師が独自に探究を続けている「坐禅のやり方」の一端に触れてみたいと思います。

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その8」 につづく。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代前半。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。