〈仏教3.0〉でスッキりする! その6

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する5回目として、瞑想の実践を基本とする〈仏教2.0〉で、行き詰まる人たちが意外と多い理由などを見てきました。その記事はこちらです。引き続き、その検証過程から浮上した「シンキング・マインド」というキーワードをもう少し追いかけてみます。

Photo by Corto Maltese 1999 – Bagan, Burma (2007) /CC BY 2.0

20代から坐禅修行を続けた山下師は、40代半ばとなった2001年からテーラワーダのパオ・セヤドー老師に師事し、ミャンマーで懸命に「パオ・メソッド」を学び始めます。しかし、思い(シンキング)の過剰という自分の病気が「治癒」されたという実感をなかなか持つことができず、ようやく修行の見通しが立ったと自覚できたのは、現地入りから4年後のことでした。

一照 ・・・要するにパオ・メソッドはやっぱりそれぐらい難しいということなんだね?
良道 難しいですね。だってメソッドの最初にやる自分の呼吸を見るということですら、みんなほとんどできないんだから。(中略)英語だと” Watch your breath.”いう言い方をしますね。 ・・・  (第5章より。下線は筆者)

山下師によれば、「呼吸を見る」瞑想においては「空気が鼻に当たるとひやっとした感覚」を感じ続けるのではなく、「そのひやっと感じた鼻の入り口あたりに意識をおいて、鼻腔を出入りする息にただ気づいていなさい」と指示される。喩えて言うならば、屋敷の入口に立つ門番が人の出入りをただ観察するように、ただひたすら自分の息を観察しなさいと教わるそうです。それだけならば誰にでもできそうですが、実際にやってみると難しく、とくに西洋人には、また日本人にとってもけして容易なことではないようです。

一照 ・・・だけど、Watch your breath.と言われたら、当然 I watch my breath.という理解になって、シンキング・マインドが見てしまうことになる。(中略) I が主語になって仕事をしちゃう構造ができちゃうね、・・・

両師は、”I watch my breath.”=「わたしが・息を・見る」となってしまえば、当たりまえに指示に従っただけで気の毒だけれども、瞑想としては初めから失敗しているようなものと宣告します。同様に坐禅においても「わたしが・坐禅を・する」となれば、もはや道元禅師が戒めるところの習禅であって坐禅とは言えなくなると述べています。ここで指摘されているのは、非常に単純な話です。” Watch your breath.”は”You watch your breath.”と同じですから、言われた方は瞬時に”I watch my breath.”と理解し、そこに問題の”I”=「シンキング・マインド」が出てきてしまうのです。

わたしたちはふだんから言葉を使って思考しています。口に出さなくても、頭の中で一日中あれやこれやと言葉で考えながら、言語で構築された世界に生きています。中でもとくに、英語をはじめとする主語優勢言語で出来上がった世界は、より強くシンキング・マインドに支配されていると言っていいでしょう。その意味で、ティク・ナット・ハン師らが欧米において仏教を普及させていった過程で、英語その他の西洋語への翻訳が大きな武器となったことは確かですが、それと並行して、瞑想を実践する際の言語とシンキング・マインドの関係性・問題性について警告される必要があったわけです。当然それに気づいた指導層はいたのかも知れませんが、結果的に” Watch your breath.”といった単純な指導法が広まってしまったようです。

“I”=「シンキング・マインド」が、なるべく前に出てこないように指導できないものでしょうか。因みに、両師が実際に指導する場合は、言葉の使い方をどのように工夫しているのか、参考として引用しておきます。

良道 わたしは、「息を見る主体」ではなく、「息が見えている主体」と言っています。どうしても「見る」というと、こっちから出かけて行って能動的に見るということになってしまうんだけど、瞑想の場合は「見る」というより「見える」っていう受動的な特質を持っているからです。そこを区別するために「見る主体」じゃなくて「見えている主体」。・・・

一照 僕の言い方だと坐禅では「俺が・背骨を・伸ばす」んじゃなくて、「背骨が伸びる」でなければならない。この「背骨が伸びる」ときの主体って普通の俺じゃなくて、文法的には背骨なんだけど、日常の意識にとっては体験的には「自然にそうなる」としか言いようがない。だから僕は英語の話のときは “I” じゃなくて “It” が伸ばすんだなんて言い方をしてるけどね。 (第5章より。各下線と””は筆者)

両師のインストラクションはより適切であると理解できますが、しかし、これのみで解決するほど簡単なことではないようです。つまり、こちら側でそれを聞く主体が、依然として「自分」=「シンキング・マインド」である限り、説得力のあるインストラクションも通用しない。結局、「シンキング・マインド」にはどうしても呼吸を見ることができないし、その先へ進むことなどもっと不可能。そこに問題の核心があると両師は指摘します。一般に問題点が明確であれば、解決法はその裏返しということがよくありますが、この場合は「シンキング・マインド」を何とかする、両師の表現では「シンキング・マインドを手放す」ことが唯一の解決策という方向に議論は進んでいきます。

具体的な解決の糸口が、山下師のミャンマーにおける稀有な修行体験の中にあることはわかっています。山下師が自らの修行を重ねながら、この問題をどのようにひも解き、解決の見通しを立てるに至ったのか。すなわち、〈仏教2.0〉の限界や行き詰まりをいかに乗り越え、バージョンアップあるいはアップデートの先例たり得たのか。本対談では、藤田師との絶妙なやりとりを通じて、そのプロセスが詳しく丁寧に語られていきます。

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その7」 につづく。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。