〈仏教3.0〉でスッキりする! その5

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する4回目として、人々に向き合おうとする〈仏教2.0〉のアウトラインに触れてきました。その記事はこちらです。

両師は80年代後半に、米国で〈仏教2.0〉の現場に立ち、その後十数年間それぞれの道を辿ってから、2000年代半ばに相前後して帰国します。その頃、すでに日本ではテーラワーダ仏教の長老たちの本が相当数出版されたり、各地で瞑想指導や講演なども開かれたりと、〈2.0〉が遅ればせながら導入されつつありました。師らもすぐにそうした動きに参入し、葉山と鎌倉でそれぞれ実践指導を始めます。ところが、それから、〈2.0〉のやり方に従って自ら治療に励みだした人たちの多くが、うまくいかずに行き詰まってしまうという状況が顕在化してきました。両師の議論は、実は日本のみならず米国やミャンマーでも、指導に従って懸命に取り組んでいるのに行き詰まる人たちが大勢いる、つまりそれは〈仏教2.0〉の限界を意味するのではないか、という重大な問題提起へと進んでいきます。

一照 ・・・実はアメリカの禅堂にも、ヴィパッサナーをかなりやり込んだ人がけっこう来ていました。かれらの多くはかつては坐禅をやっていたんだけど、禅が「ただ坐れ」と言うだけであまりにも説明がないし、修行についても曖昧模糊としていて何をやっているのかわからなくなってきて、ちょうどそのころテーラワーダがアメリカに広まってきて、それでヴィパッサナー瞑想に乗り換えた人たちなんですよ。こっちのはうがちゃんと言葉で説明があって理解できるし、何をどうするかということがはっきりしているって。でも、そういう人たちがまた坐禅に帰ってきている。面白いなあと思っていろいろ聞いたら、みんなこう言うんですよ。「ヴィパッサナーをやればやるほど『自分』が重く感じられる」って。そりゃそうですよね。良道さんが前にも言ってるように、この自分が頑張って、ヴィパッサナーをしようとしてるんだから。・・・

良道 ・・・自我の強烈なアメリカ人だからこそよりシビアに表現されてわかりやすいんだろうけど、そこがまさに「仏教2.0」の本質的限界なんですよ。日本人の場合はそれほど自我が前面に出ていないからアメリカ人ほど目立たないんだけど、構造としては同じ行き詰まり方だと思います。というのは、わたしのところに来ている「仏教2.0」の人たちも、この「自分」が瞑想している限りどんなに頑張っても新しい地平が開かれてこない息苦しさを感じています。一照さんが会った人たちが「自分が『重く』感じられる」と言ったのと同じ感じだと思います。・・・ (第5章より。下線は筆者)

Photo by Rockrangoon – A pagoda at the peak viewpoint of Mawlamyine, Myanmar (2012) /CC BY-SA3.0

このように述べる山下師自身も、かつては瞑想修行で行き詰まっていたことを、第4章ほかで詳しく述懐しています。そもそも師は「君の病気は思いの過剰が原因だよ、だから思いの手放しを修行しなさい」と内山興正師に諭されて修行を始め、長い間、一生懸命取り組みますがうまくいきません。そして、40代の半ば頃に「思いの手放し」と「マインドフルネス」の関係に着目し、すべてを捨ててミャンマーに渡り本格的な研鑽を積みますが、そこから先もけして平坦な道ではありませんでした。師が見たのは、千人が修行する本場の瞑想センターのようなところでコース完了者はわずか十人程度、修行の成功率1%という現実だったのです。山下師はその後4年がかりで行き詰まりを乗り越えますが、そのことではっきりと〈仏教2.0〉の限界が見えた、ということでもあったのです。

もういちど先の引用部分に戻りますが、両師が述べていることは、(自分として)瞑想の技術やメソッドを徹底的に学ぼうとか、(自分で)「さあ瞑想するぞ」と意気込んだり、あるいは頑張れば頑張るほど、むしろ行き詰まりやすいということのようです。問題点がどこにあるのかといえば、この「私」・「俺」・「自分」が瞑想しているから、必然的に行き詰まるのだと指摘しています。では、自分が瞑想するのでないとすると、自分以外のいったい誰が瞑想するのか、という不可思議な疑問が湧くことになりますが、そこへ進む前にまず、行き詰まりを感じつつ瞑想を続けている、この「私」・「俺」・「自分」とは誰のことか、その点をもう少し分析的に見ておきましょう。

「方法序説」 – ルネ・デカルト

「われ思う、ゆえにわれあり (“I think, therefore I am.”)」という、デカルトの命題があります。「自分」はなぜここにいるか、とそのように考えること自体が「自分」が存在する証明であるとして、主体としての自己を定式化しました。両師が上で示した「自分」とは、まさにこの近世哲学でいうところの「主体としての自己」にほかなりません。ただし両師の場合、英語を用いて誰にもわかりやすく伝えること(現代語への翻訳)を重視していますので、本書やほかの場所においても、「自分」=「思考(シンキング;thinking)する主体としての自己」=「シンキング・マインド(thinking mind)」という表現をよく使います。

わたしたちは普通(と言った場合、西洋人と日本人ではやや異なるかも知れませんが)、次のような人間観・世界観を持っているのが当たり前ではないでしょうか。つまり、わたしたち人間は精神と肉体が合わさった存在 ―― あれこれ一日中考えている思考の主体=シンキング・マインドと物質的な肉体とが組み合わさったものである。それ以外には何もない・・・と。もし「私」・「俺」・「自分」とは何かと訊かれたら、ほかに言いようがないですよと。
ところが(!)です。

良道 われわれはシンキング・マインドが自分だとずっと思い込んでいた。実は、われわれの親もそう思い込んでいた。われわれの小学校の先生も、大学の教授も職場の上司もみんなそう思い込んでいたから、だから当然われわれとしては、それが自分だと思わざるを得ないわけですよ。だけれども、それが自分だと思ってる限り、あまりにも辛いことが多すぎて、で、辛いから瞑想して幸せになろうと思ったんだけど、瞑想もシンキング・マインド主体でやっちゃうから失敗続きでここでも行き詰まる、というのがどうしよううもない現状だと思うんですけどね。

一照 僕らがずっと話してきている見聞覚知の主体は、要するにエゴとか我とかと言われているものなんだね?普段われわれが「俺、俺」と言っているやつ。 (第5章より)

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その6」 につづく。

投稿者: heartbeat

管理人の”Heartbeat”(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代前半。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。