〈仏教3.0〉でスッキりする! その4

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する3回目として、〈仏教1.0〉に分類される日本仏教のあり方などに触れました。その記事はこちらです。今回は、〈仏教2.0〉の主題へと進めていきます。

Photo by *christopher* – Čeština: Tibetský dalajláma v roce 2012 /CC BY 2.0

両師が渡米し、マサチューセッツ州の坐禅堂に赴任した80年代後半には、米国における仏教はいわば成長期に入っていたと思われます。その頃すでに、ベトナム出身のティク・ナット・ハン師(Thich Nhat Hanh)が米国で活動を始めてから20年余りが経過しており、また、ダライ・ラマ14世がノーベル平和賞を受賞したのは1989年のことでした。多くの人々は組織化された宗教よりも、スピリチュアルな個人的体験に魅了されるようになっており、とくに、禅仏教が教える坐禅やテーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想は実践が容易で、心を癒し活力を与えるものとして人々を引きつけました。そもそも個々人を重視し、人生を苦しみであるとしつつも同時にその苦しみから脱する方法を説く仏教の性格が、人々の求めによくフィットしたのです。

禅への鍵 〈新装版〉米国で仏教が普及していく段階のひとつの特徴として、本書でも、レベルの高い出版物の貢献を指摘しています。仏教に引きつけられる人たちの多くは高学歴で、中流以上に属しており、かれらは非常によくそれらの本に目を通し、仏教の哲学的次元を把握しようさえしました。藤田師はそれらの内いくつかを翻訳しており、代表的なものに、ティク・ナット・ハン著『禅への鍵(Zen Keys: A Guide to Zen Practice)』(2001年・春秋社刊、2011年に新装版)という本があります。このあたりにつき、藤田師のコメントを少し引用します。

一照 ・・・この三十年の間に、仏教の本が英語圏でものすごい勢いで増えてきている。そして、内容のレベルも上がってきていると思います。(中略)日本じゃ絶対書かれないようなスタイルで、かなり高いレベルで仏教をちゃんとわかって、いかに仏教がわれわれの人生をよい方向に変容させることができるか、ってことを自分の言葉でストレートにわかりやすく語っている本です。僕がこれまで日本語に訳してきたようなのはそういう本だと思ってるんだけど、とにかく優れた仏教書がどんどん増えてきていることは、間違いないと思うんです。われわれはそういう本の助けを借りて、もう一回英語で仏教をゼロから学び直したということが大きい。(中略)その作業を通して、自分の甘い理解のところなんかにあれこれ気づくことができた。・・・(第2章より)

Photo by Duc (pixiduc) from Paris, France – Thich Nhat Hanh in Paris (2006) /CC BY-SA 2.0

日本で修行した曹洞禅を伝えるために渡った米国で、両師は、日本国内では見たり聞いたりすることのなかった様々な仏教に遭遇します。山下師の場合、そうした中で最も強烈なインパクトを受けたのは、ティク・ナット・ハン師が自著の中で繰り返し語っている「マインドフルネス (mindfulness)」という言葉でした。当時の山下師とすれば、「マインドフルネス、いったいそれはなんだ?そんなもの日本では習っていないぞ」という感じでした。山下師はその後、藤田師と別々の道を歩むことを決め、イタリアを経由して1992年に帰国し、1995年にオウム真理教による事件で衝撃を受けた直後のある時期に、来日したハン師と実際に膝を突き合わせて話をする機会を得ます。藤田師もそこに、ハン師の通訳として付き添っていました。

良道 ・・・噂には聞いていたけれどもマインドフルネスを実際に生きるというのはこういうことなのか。それを目の当たりにして、どうもマインドフルネスというのがわたしのそのころの行き詰まりを打破してくれる鍵になるのではという気がしてきたのです。(中略)ティク・ナット・ハン師に実際にお会いすると、この方がご自分の思いから自由になっているのはすぐにわかりました。ハン師が”思いの手放し”を完壁にできているのは、その教えの中心であるマインドフルネスの実践をしているためではないのかな、そう思ったのです。・・・(第3章より。”思いの手放し”は山下師に得度のきっかけを与えた内山興正師の言葉。””は筆者。)

山下師はその後、マインドフルネスを本格的に深く学び実践したいということから、テーラワーダ仏教の瞑想に取り組むのですが、2001年にはとうとう「マインドフルネスの語源である『サティ (sati)』を真正面から、しかもシステマティックに修行している」本場のミャンマーに渡ることになります。対談はこのあたりから、山下師が長期にわたる現地修行を通じて、〈仏教2.0〉の核心に迫り、さらにその先で見出したものは何か(3.0のヒント?)という佳境に入っていくのですが、そこは本書の対談そのものを是非じっくりと堪能していただければと思います。

ここでは、〈仏教1.0〉と〈仏教2.0〉はどこがどう違うのか、という点を筆者なりに簡単に見ていきたいと思います。両師は、渡米して以降、新たに目撃・体験した仏教を〈2.0〉として括ることになるのですが、何をもってバージョンがはっきり違うと判断するのでしょうか。

一照 ・・・僕らが経験したアメリカの仏教にしてもピルマの仏教にしても、日本の主流の仏教とはずいぶんテイストが違っていたよね。(中略)
良道 やっぱり一番大きな違いは、アメリカやビルマで出会った人たちは自分自身の心の問題を仏教を通して真剣に解決しようとしていたということでしょうね。これが「仏教2.0」の特徴の一つ。

一照 ・・・僕らがアメリカに行って、何かとても新鮮に感じたのは、その喩えで言うと、かれらは医学を信じて医療行為を一生懸命やって、病気を本気で治そうとしていた、それに感動したということになるね。
良道 その通り。それに加えてわたしがビルマで感動したのは、この喩えの延長で言うと、社会全体が医学を深く信じていて、医者や看護師の働きにものすごく大きな期待を寄せてみんなでそれを支えているということ。そして医者や看護師さんたちもその期待に応えるべくものすごく努力しているということでした。(中略)わたし自身それによって救われた一人なので、もういくら感謝してもし足りないぐらいなのです。
一照 そういうのが本当の意味での「仏教国」のあり方だと思う。日本の仏教はどうしたらそういう方向に転換していけるんだろうね。 (第5章より)

Photo by Christophe Menebœuf – Buddhist statue in the former capital city of Polonnaruwa in Sri Lanka (2009) /CC BY-SA 3.0

両師は、現在の日本仏教のあり方を「医療行為が行われていない不思議な病院」に喩えて〈仏教1.0〉としました。その喩えの一つの証左になりますが、僧侶も精神科医も大勢いる日本で、20代から40代前半の死亡原因の第1位が「自殺」であることはご存知でしょうか。悩み苦しむ人々に対して、〈1.0〉が手を拱いていることは明らかです。その日本と比較して、たとえば、スリランカ出身で長年、日本で瞑想指導を行っているアルボムッレ・スマナサーラ師は、師の母国では精神科医が必要とされず人数も少ない。それはつまり「需要がないんです。仏教の世界だから」と、僧院がほとんどの悩み・苦しみを解決していることを自著で紹介しています。(『生きる勉強』;サンガ新書)

また、米国においても、銃で多くの人が死ぬことは別問題として、瞑想の医学的効果が一般的にも評価され、宗教的な環境においてばかりでなく、病院やセラピーオフィスといった場所で実践されていることなどが各所で伝えられています。両師が見た日本以外の現場、アメリカの禅センターや、ミャンマー、スリランカにおける仏教の僧院などは、喩えではなく、まさにある種の医療現場として機能しており、両師はそのことに新鮮な驚きや感動を覚えたわけです。そして、人々の苦しみや悩みに正面から向き合い、瞑想指導などを通じて積極的に対処している仏教を、〈仏教2.0〉と括ることにしたのです。

次回は、〈仏教2.0〉に惹かれ、実践する人たちの多くが、何かの理由でうまくいかず行き詰まってしまう、という重大なポイントに触れていきます。一体どういうことでしょうか?

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その5」 につづく。

今このとき、すばらしいこのとき Present Moment Wonderful Moment

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。