「日本水没」は現実に起こる その3

前回は、「日本水没」(朝日新書; 2016年7月刊)の著者、河田惠昭氏が危惧する巨大複合災害=「国難災害」の脅威についての2回目でした。その記事はこちらです。

日本水没 (朝日新書)巨大災害が明日起こるかも知れない中で、わが国の備えがいかに心許ないかという現状を見てきました。しかし、政府・国民がその事実を理解できたとしても(理解しないよりマシですが)、短期間で米国並みに資源を準備・投入し、体制を構築することはけして容易ではありません。そこで河田氏は、まず少なくとも「限られた資源をどのように有効に使うかという事前の計画と実行体制」を準備すること、また人員や各種物資の絶対量が不足する状況下では「優先順位をどうするかという対応戦略が必要であり、それを支援する情報の収集や解析、共有化」が必要であると強調します。

それらを進めていくうえで、東日本大震災以降、「『想定外』という言葉を禁句にしなければならないという合意が社会にできてきた。つまり、起こることを前提に、最悪の被災シナリオや過酷事象対策を進めようとするものである」と、研究者・専門家にとってやや追い風も吹いてきました。河田氏は、これが「縮災(ディザスター・リジリエンス;disaster resillience)」であり、従来の「防災」に代え、また「減災」を一歩進めた、わが国にとって必要な新たな概念であると紹介しています。くわしくは本書でぜひご確認いただきたいと思います。

うず高く積まれた援助物資(東日本大震災)出典:(財)消防防災科学センター

中長期的に(といってあまり時間の猶予は許されない状況ですが)、日本を破滅・衰退から救うためには、さらに抜本的な制度設計・改革を実現していかねばなりません。河田氏は、「防災省」を創設して「国難災害」を迎撃しようと提言します。「この国を、災害という氷山に衝突するタイタニツク号にしないために、防災省を創設して滅災・縮災に日常業務として取り組むことが喫緊の課題である。防災庁では駄目だ。財務省や国土交通省と同格でなければならない。わが国は先進国中でもっとも災害のポテンシャルが大きいにもかかわらず、その対応は過去を繰り返さないことに終始している。国難災害で国が廃れてからでは遅い」として、いま国全体が束の間の安心・安全に酔っている場合ではないことを強く訴えます。

日本赤十字社医療救護所(東日本大震災)
出典:(財)消防防災科学センター

河田氏のいう防災省創設、そのための議論と法整備が進めば、「国難災害」を迎え撃つための頼もしい体制づくりの一歩となるでしょう。たとえ暫定でも、組織体制はすぐにも構築・強化していくべきですが、恒久活動とするには基盤となる法整備が必要となります。一つは憲法への非常事態条項の追加、もう一つは災害対策基本法の抜本的改正です。1962年に施行された同基本法について、氏は「災害による被害が発生しない限り、対策はとらないという貧しい時代の法律である。現代には適していない」との認識を示しています。こららが改革の本丸でありハードルとして低くありませんが、「国難」への備えである以上、政府もわたしたち国民も早急に腹をくくらねばならないでしょう。

最後に、国民の意識や防災教育に目を向けておきたいと思います。日本では連日、災害に関するニュースや記事などを目にしますが、多くの人が時折ふと考えるのは「なぜそんな危ない場所に住んでいたのだろう」という疑問です。住居を定めるとき、その地区毎に固有の災害リスクが考慮されていない。これは現代日本の不思議であると筆者は日ごろ感じていました。本書でも「東日本大震災で被災した津波常襲地帯では、津波を知らない、他所から移ってきた住民が被害者の30%を超えていた」といった傾向に注目しています。

河田氏は次のような例もあげます。「2014年の広島市の土砂災害被災地の『八木』という地名は、宅地造成前は『八木蛇落地悪谷(ヤギジャラクジアシダニ)』であった。江戸時代には土石流のことを『蛇抜け(ジャヌケ)』と呼び、同地は50年から60 年ごとに起こる土砂災害の常襲地帯だったのである。常総市の多くの住民は『鬼怒川(鬼が怒るような暴れ川)』や、中心地の『水海道(みつかいどう;水に固まれた土地)』という名称に無関心だったに違いない」と。つまり、いま自分と家族がどこに住んでいるのかを知り、命を守るためには場合によって移住さえ選択肢に加える必要がある、ということではないでしょうか。

また、次のような例もあげています。東京湾岸エリアのような「ゼロメートル地帯では、洪水や高湖、津波などの水害が起これば甚大な被害が出ることが容易に想像できる。そこに住む住民は、驚くほどそのことを知らないことが意識調査やアンケートでわかった。『私はマンションの高層階に住んでいるから関係ない』と考えている住民もいる。しかし、これは全くの誤りである。なぜなら、階数にかかわらず、水害が起こると真っ先に断水するからだ。浄水場やポンプ場は川のそばに立地していることが圧倒的に多い。断水や停電、都市ガス停止、道路が使えないとなれば、マンションそのものが孤立する。そこに誰がどのようにして救援物資を運ぶのだろうか。氾濫災害が起これば、浸水地域全体が孤立しかねない」と。

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)歴史学者の磯田道史氏は「天災から日本史を読みなおす – 先人に学ぶ防災」(中公新書)という著作で、史料に残された過去の「災い」の記録をひもとき、そうした災害から命を守る先人の知恵を紹介して評判となりました。また「ブラタモリ」のような番組では、いま住んでいる場所がもともと海や荒れ地だったという地形の話や、歴史的な治水事業の話題などが度々紹介されています。メディアの「(災害を)忘れない」というキャンペーンも継続されています。このように、わたしたちは日ごろ頻繁に、災害に関する情報に接しているのですが、そこから真剣に教訓を学んで危機意識に結びつけることが、あまりにもできていないようです。

壊滅した南三陸町役場
出典:(財)消防防災科学センター

中学や高校では日清・日露や太平洋戦争を学びますが、自然災害についてはどうでしょう。関東大震災に少し触れる程度で、たとえば20世紀中における日本の自然災害犠牲者は米国の9倍もあり(本書)、日本が災害大国であること、災害は国家・国民的な脅威であることがあまり教えられていません。東北の一部学校で行なわれていた防災特別授業が子どもたちや地区住民を救ったという話題はありましたが、残念ながら例外的な取り組みだったわけです。しかし、いまからでもけして遅くありません。わたしたち大人は、防災・減災教育の本格的な導入に向けてもっと努力すべきではないでしょうか。

人間にはどうしても「自分だけは大丈夫」と期待する本能があります。頭のどこかで災害について考えても、「ほかの人たちも住んでいるし・・・」とか、「何十年も起こっていないから大丈夫」とか、ついそのように楽観に流れてしまいます。心理学では「認知不協和」と呼ぶそうですが、ある程度災害の知識や懸念があっても、心の安らぎを得ようとして、自らに都合のよい解釈でそうした理性的部分を覆い隠してしまうようです。だからこそ、子どもたち・大人を含めて、防災・減災教育の見直しや徹底が必要なのです。

戦争よりはるかに確率の高い「国難災害」が迫っています。政府・国会議員の覚醒がもっとも重要ですが、できるだけ多くのみなさんがここでご紹介したような正しい情報に接し、他人事でなく自分の事として、それぞれに備えていただきたいと願ってやみません。

この記事シリーズは、ここでひと区切りとします。