〈仏教3.0〉でスッキりする! その6

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する5回目として、瞑想の実践を基本とする〈仏教2.0〉で、行き詰まる人たちが意外と多い理由などを見てきました。その記事はこちらです。引き続き、その検証過程から浮上した「シンキング・マインド」というキーワードをもう少し追いかけてみます。

Photo by Corto Maltese 1999 – Bagan, Burma (2007) /CC BY 2.0

20代から坐禅修行を続けた山下師は、40代半ばとなった2001年からテーラワーダのパオ・セヤドー老師に師事し、ミャンマーで懸命に「パオ・メソッド」を学び始めます。しかし、思い(シンキング)の過剰という自分の病気が「治癒」されたという実感をなかなか持つことができず、ようやく修行の見通しが立ったと自覚できたのは、現地入りから4年後のことでした。

一照 ・・・要するにパオ・メソッドはやっぱりそれぐらい難しいということなんだね?
良道 難しいですね。だってメソッドの最初にやる自分の呼吸を見るということですら、みんなほとんどできないんだから。(中略)英語だと” Watch your breath.”いう言い方をしますね。 ・・・  (第5章より。下線は筆者)

山下師によれば、「呼吸を見る」瞑想においては「空気が鼻に当たるとひやっとした感覚」を感じ続けるのではなく、「そのひやっと感じた鼻の入り口あたりに意識をおいて、鼻腔を出入りする息にただ気づいていなさい」と指示される。喩えて言うならば、屋敷の入口に立つ門番が人の出入りをただ観察するように、ただひたすら自分の息を観察しなさいと教わるそうです。それだけならば誰にでもできそうですが、実際にやってみると難しく、とくに西洋人には、また日本人にとってもけして容易なことではないようです。

一照 ・・・だけど、Watch your breath.と言われたら、当然 I watch my breath.という理解になって、シンキング・マインドが見てしまうことになる。(中略) I が主語になって仕事をしちゃう構造ができちゃうね、・・・

両師は、”I watch my breath.”=「わたしが・息を・見る」となってしまえば、当たりまえに指示に従っただけで気の毒だけれども、瞑想としては初めから失敗しているようなものと宣告します。同様に坐禅においても「わたしが・坐禅を・する」となれば、もはや道元禅師が戒めるところの習禅であって坐禅とは言えなくなると述べています。ここで指摘されているのは、非常に単純な話です。” Watch your breath.”は”You watch your breath.”と同じですから、言われた方は瞬時に”I watch my breath.”と理解し、そこに問題の”I”=「シンキング・マインド」が出てきてしまうのです。

わたしたちはふだんから言葉を使って思考しています。口に出さなくても、頭の中で一日中あれやこれやと言葉で考えながら、言語で構築された世界に生きています。中でもとくに、英語をはじめとする主語優勢言語で出来上がった世界は、より強くシンキング・マインドに支配されていると言っていいでしょう。その意味で、ティク・ナット・ハン師らが欧米において仏教を普及させていった過程で、英語その他の西洋語への翻訳が大きな武器となったことは確かですが、それと並行して、瞑想を実践する際の言語とシンキング・マインドの関係性・問題性について警告される必要があったわけです。当然それに気づいた指導層はいたのかも知れませんが、結果的に” Watch your breath.”といった単純な指導法が広まってしまったようです。

“I”=「シンキング・マインド」が、なるべく前に出てこないように指導できないものでしょうか。因みに、両師が実際に指導する場合は、言葉の使い方をどのように工夫しているのか、参考として引用しておきます。

良道 わたしは、「息を見る主体」ではなく、「息が見えている主体」と言っています。どうしても「見る」というと、こっちから出かけて行って能動的に見るということになってしまうんだけど、瞑想の場合は「見る」というより「見える」っていう受動的な特質を持っているからです。そこを区別するために「見る主体」じゃなくて「見えている主体」。・・・

一照 僕の言い方だと坐禅では「俺が・背骨を・伸ばす」んじゃなくて、「背骨が伸びる」でなければならない。この「背骨が伸びる」ときの主体って普通の俺じゃなくて、文法的には背骨なんだけど、日常の意識にとっては体験的には「自然にそうなる」としか言いようがない。だから僕は英語の話のときは “I” じゃなくて “It” が伸ばすんだなんて言い方をしてるけどね。 (第5章より。各下線と””は筆者)

両師のインストラクションはより適切であると理解できますが、しかし、これのみで解決するほど簡単なことではないようです。つまり、こちら側でそれを聞く主体が、依然として「自分」=「シンキング・マインド」である限り、説得力のあるインストラクションも通用しない。結局、「シンキング・マインド」にはどうしても呼吸を見ることができないし、その先へ進むことなどもっと不可能。そこに問題の核心があると両師は指摘します。一般に問題点が明確であれば、解決法はその裏返しということがよくありますが、この場合は「シンキング・マインド」を何とかする、両師の表現では「シンキング・マインドを手放す」ことが唯一の解決策という方向に議論は進んでいきます。

具体的な解決の糸口が、山下師のミャンマーにおける稀有な修行体験の中にあることはわかっています。山下師が自らの修行を重ねながら、この問題をどのようにひも解き、解決の見通しを立てるに至ったのか。すなわち、〈仏教2.0〉の限界や行き詰まりをいかに乗り越え、バージョンアップあるいはアップデートの先例たり得たのか。本対談では、藤田師との絶妙なやりとりを通じて、そのプロセスが詳しく丁寧に語られていきます。

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その7」 につづく。

〈仏教3.0〉でスッキりする! その7

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する6回目として、「シンキング・マインド」の問題に触れました。その記事はこちらです。 ここまで恥ずかしげもなく長々と記事を書いてきましたが、ここから先、ますます”凡夫”の理解を超えた内容に触れていこうとしています。(ただし、経験豊かな皆さまにとっては、周知の事実に過ぎないかも知れません)

前回までに、「”I”;私」=「自分」=「シンキング・マインド」では呼吸を見ることができない、というところまで来ました。両師によれば、自分という主体が「呼吸を見る」ことは、どうやってもあり得ない。しかし、瞑想のメソッドによって、「呼吸が見えている」状態に達することは実証されている。すると3段論法で、その「呼吸が見えている」ときは”いままでの自分”もしくは”普通の自分”ではない別の主体、”本質的な自分”のような主体によって「呼吸が見えている」ことになる。では、その別の主体とは一体何だろうということになります。

ここから話を進め易くするため、一旦、結論的なことのご紹介になります(本書の構成上も、全6章の第4章で結論が先に紹介されます)。山下師はそもそも、自分の病気である「思い(シンキング)の過剰」を治癒するために「思いの手放し」の修行を続け、その延長で40代半ばに本場ミャンマーでの修行に臨みます。そして最終的に、内山興正師にいわれた「思いを放つ」ことができました。それは同時に、ティク・ナット・ハン師のいう「マインドフルネス」を実感したという意味であり、また山下師自身の表現では「シンキング・マインドを手放す」ことができたわけです。

山下師は、シンキング・マインドが落ちた後に残っているものこそ「呼吸を見る=呼吸が見えている」主体であるとします。師は、その主体にすてきな名前を付け、世の中の人々に伝えることにしました。すなわち、そのときの「わたしは”青空”」であると。

良道 ・・・確かに自分は、シンキング・マインドと肉体を持っているけれど、それが自分のすべてではなかった。シンキング・マインドと肉体に決して還元されない何かがある。いままで決して見えなかった自分の本質がついに明らかになった。このあたりを説明するのに、わたしは雲と青空の例をしばしば使います。形のある雲と、形のない青空。シンキング・マインドと肉体でできた自分を雲とすると、いままではずっと自分は雲だと思って生きてきた。ヴィパッサナー瞑想を始めてからも長い間、雲である自分が、別の雲を客観的に観察するのがヴィパッサナーだと思い込んできた。だけど、あるとき雲が一斉になくなってしまった。青空だけになってしまった。だけど不思議なことに、青空だけになった青空をきちんと認識できているわたしがいた。もしわたしが雲だったならば、雲がなくなってしまった後の青空を認識はできないはずなのに。

一照 そうですね。認識する人そのものがいなくなるからね。認識の主体は雲しかないという前提に立っていたら、雲がなくなって青空を認識するということは説明ができないよね。後は青空そのものが青空自身を認識しているとしかいえない。(第4章より。下線は筆者)

山下師が「パオ・メソッド」を学んだ場所ではコース完了者が1%しかいない、という話が前に出てきました。コース完了者は瞑想の中で青空を経験したはずですが、師によれば、不思議なことに「わたしとは誰か (Who am I ?)」という認識がそれまでと変わらず、師のように「わたし=青空」という世界を開けない人が大勢いたとのことでした。なぜその人たちに世界が開けず、自分には開けたのか、ということに師自身も当初かなり戸惑ったようですが、本対談では、それについて考察した内容を次のように語っています。

道元禅師

良道 ・・・それはまさにそのことを30年前からわたしはたたき込まれていたからなんですよ。道元禅師も最初から「お前は青空だぞ」と言われていますね。「お前は青空、だから、坐禅したらすでに仏なんだよ」と。だから修行と悟りが一緒なんだよと。だから、威儀即仏法、つまり日常の行為そのものが仏法なんだよと言ってるわけです。30年前、わたしたちが道元禅師の伝統のもとで修行を始めたとき、そういうことを繰り返し言われていても全然ピンとこなかったですよね。ところが、ようやくビルマでの修行の最後のどん詰まりまで来て、初めてそれが腑に落ちたんです。本当にピンときた。その道元禅師の世界観がわたしの中にすでにあったから、青空の世界に出合っても一切混乱に陥らずに、一気にそこをくぐり抜けて「わたし=青空」の世界に出ることができたと思うんです。・・・ (第4章より。下線は筆者)

山下師は、禅僧からテーラワーダの比丘へと転じた人ですが、禅僧の時代に積み重ねた(ただし当時は言葉でしか理解していなかった)大乗仏教の教えが、ミャンマーでの修行の最終段階にきて師の内奥ではじけ、「初めて自分の体験としてリアルに理解できた」と述べています。師の立場はこのとき以降、「大乗仏教でもテーラワーダ仏教でもなくて、二つを両方とも押さえた『ワンダルマ(一法)仏教』というもの」に再び転じました。ワンダルマとは、大乗とかテーラワーダに分かれる以前の法であり、両者が統合された次元の法ということもできます。すなわち、ここにきて、瞑想指導を中心とするテーラワーダ仏教のあり方〈仏教2.0〉から、〈仏教3.0〉へのアップデートが、「青空体験」を経た山下師自身の中に起こったのです。

さて、〈仏教2.0〉で行き詰まっている人たちにとって、一人でそこを乗り越えてみせた山下師の快挙は朗報であり、先例として学びたいとするのは当然でしょう。ただ。”凡夫”としては素朴な疑問も湧いてきます。はたして自分に青空が見えるという可能性はあるのか。「見たいと思う者には見えない」とすると、やっぱり自分には見えないだろうな。青空どころか自分の呼吸さえ見えないだろう。山下師が辿ったような修行は自分には到底無理だし・・・すると、やはり自分は〈仏教2.0〉で行き詰まるところまでしか行けないのではないか・・・等々。これらのすべてが、まさにシンキング・マインドの仕業であるとは理解できるのですが、さあ、このあと一体どうすればいいのでしょうか、両師!

良道 ・・・実はそんなヴイパッサナー瞑想の最後の段階まで行かなくても、呼吸を見るというイロハのイの瞑想ですら、青空から呼吸を見ると言ったほうが遥かに本質を突いているんですよ。つまり、初歩の初歩からもう青空の立場で瞑想するべきだということなんです。なぜ今まで多くの人が呼吸が見ることができなかったかと言うと、やっぱりみんな雲である自分で見ようとしていたからです。つまり、シンキング・マインドで見ようとしていた。・・・ (第4章)

答はすでにありました。わたしたちにも「シンキング・マインドを手放す」具体的な方法を学ぶことができるようです。次回は、山下師による自らの体験を踏まえた「ワンダルマ・メソッド」、また藤田師が独自に探究を続けている「坐禅のやり方」の一端に触れてみたいと思います。

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その8」 につづく。

〈仏教3.0〉でスッキりする! その8

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する7回目として、山下師の「青空体験」を契機とするアップデートの方向性について触れました。その記事はこちらです。

Thich Nhat Hanh at Hue City, Vietnam (2007)

瞑想や坐禅で最も大事なことは、はじめからシンキング・マインドを手放すことだとわかりました。山下師による「雲と青空」の喩えを用いると、雲(シンキング・マインド)がやっていれば〈仏教2.0〉、雲が脱落し、そこにもともと広がっていた青空が呼吸を見たり、坐禅をするのが〈仏教3.0〉ということになります。では、シンキング・マインドを手放すには、具体的にどうすればいいのか。山下師はミャンマーからの帰国後、〈2.0〉で行き詰まっている人や新たに瞑想を学びたい人たちに向けて、独自のワンダルマ・メソッド(瞑想法)を体系化するのですが、その一つの契機となったのは、ティク・ナット・ハン師による「カーヤ・イン・ザ・カーヤ」という深遠な意味をもつ指摘でした。

ブッダの〈気づき〉の瞑想良道 ・・・体のことをパーリ語で「カーヤ」と言いますが、カーヤをどう見ていくかをお釈迦様はこう教えていらっしゃる。「カーヤ・イン・ザ・カーヤ(体の中で体を見る)」と。(中略)「四念処経」、パーリ語では「サティパッターナ・スッタ」。その中にちゃんと書いてあります。だけど、この体の中で体を見ることの深い意味が今まですっきりとしなかった。現代の瞑想の先生の中で、これをいちばん明確に話していらっしゃるのが、ティク・ナット・ハン師です。ティク・ナット・ハン師は「Transformation And Healing」(邦訳『ブッダの〈気づき〉の瞑想』)の中でそこをきちんと解説しています。
(第4章より。下線は筆者)

青空としてのわたし本当の自分とつながる瞑想入門山下師のワンダルマ・メソッドは、―― 1.体の微細な感覚を見る瞑想、2.慈悲の瞑想、3.呼吸瞑想 という3種類の瞑想で構成されます。この3点セットを実践していくことによって、基本的には誰もがシンキング・マインドを手放したうえで「わたし=青空」の世界を開くことが可能であると教えています。本書の第4章と巻末付録にはメソッドのエッセンスが紹介されており、また本書の一読後、さらに詳しく学びたくなった方には師の2点の著作が参考として供されています。――自伝的な書き振りの「青空としてのわたし」 (幻冬舎;2014年)と、初心者向けに編集された「本当の自分とつながる瞑想入門」(河出書房新社;2015年)という2冊です。これらに説かれていることをどのように実践に活かすかは各々の読者次第ですが、少なくとも師の30年余におよぶ修行体験が凝縮された内容は瞠目に値すると言っていいでしょう。

ところで、筆者は前回、はたして自分のような”凡夫”に青空が見える可能性はあるのかという素朴な疑問を述べてみましたが、それに対する山下師の答は以下のように明快です。

良道 ・・・そんなに大げさな大事業ではないんです。わたしのメソッドでは体の微細な感覚を見ることで、シンキング・マインドが落ちて、青空の自分を体認できるんです。だからやれば誰にでもできることで、特別な才能や長い時間などはいりません。そしてこれこそが、われわれの師匠である内山老師が生涯言われ続けた「思いの手放し」の究極の意味ですよ。

一照 それは、拍子抜けするみたいな返答だね(笑)。
(第6章より。下線は筆者)

この対談では、藤田・山下両師とも仏教をアップデートしていく必要があるという認識で一致していますが、一方の山下師が〈仏教3.0〉をラディカルに体現しつつある立場というのに対し、もう一方の藤田師は曹洞宗という〈仏教1.0〉に軸足を残した立場で、どちらかと言えば対談の”聞き役”や”調整役”に回ることが多いという印象です。藤田師は、遺漏のないようスムーズに話を進めるだけでなく、難解な箇所を一般読者にわかるように噛み砕いたり、ときには独特のユーモアで包み込むといった、巧みな対話術を披露しています。また師は、禅僧として独自に探究を続けている坐禅のやり方についても、自分の専門でありながらごく控えめに語っているところがかえって印象的です。

一照 ずいぶん長く良道さんの話を聞いてきたけど、僕の坐禅のやり方についての結論もまったく同じですね。面白いくらい良道さんと共通するところに辿り着いてる気がする。たとえばいま息でいうと、「わたしは自然に息してるからもうこのままでいいです」と言うんだけど、そのときの自然というのは本当の自然ではなくて、僕は「普通の息」って言っています。普段にやってる息。これは、実は非常に不自然な息なんですよ。(中略)これじゃいけないということに気がついた人がどうするかというと、今度は呼吸法のほうへ行くわけね。

呼吸法とは、呼吸=息のしかたを対象的にコントロールしようとする技術体系や訓練法などを指しますが、それを、シンキング・マインドを無理やり手なずけようとする立場で行なえば、うまくいかないのは当然です。「多くの場合、坐禅もそういう立場でやったりしているし、そういうレベルで教えられている。外側から一方的に姿勢はこうしろとか、息はこうしろとか、心はこうであれというような形で、坐禅の姿勢・息・精神の理想状態を夢見ながら、いまの呼吸なり息なり心なりを対象的にコントロールしようとする」ので、大変つらい大仕事になってしまいます。そこで藤田師が模索するのは、「普通の息」でもなく、呼吸法でコントロールしようとするのでもない「第3の道」です。またそれは、師の〈仏教3.0〉へのアプローチを意味しています。

一照 ・・・具体的にどういうことなのかといえば、息に関して言うとよくわかるんだけど、体があくまでも自然にやっている息をコントロールしようとせずに親密な注意が注がれている、コントロールしないでありのままの息を深く感じているといった状態なんですね。これがマインドフルな呼吸ということになる。(中略)自然に起きている息の状態にそういうコントロールしようというつもりのない繊細な注意が注がれていて、息が深く感じられていると、体はそれをフィードバック情報として素直に受け取って、自前の呼吸調整メカニズムで息の質が自ずと改善されていく、それをまた注意がフィードバックしてというふうに、息と注意が螺旋的に深まっていくプロセスが進行していきます。こちらは体を信頼して、安心して任せてるんですよ。わたしはこういうあり方を「(ありのままの状態を)感じて、(自ずと起きてくる動きを)許す」と言うんですけどね。ありのままを感じていると、自然な変化が起きてくるから、それを押さえたり邪魔したりしないで起こるままに、それを許すということです。(同)

僕はこれが本来の”調”と思っていて、坐禅はそういう意味の調身・調息・調心でやっていかないとダメだろうというのがいまの僕の考えなんですよ。どうですかね? (同)僕らは「調」をこの俺が何かに対して行使するコントロールの意味で理解してて、要するに「一方的支配・管理」という意味で理解してるけど、それは間違いだと僕も思っている。ブッダが言った「よく調えられし自己」というときの「調」というのは、この第3のアプローチでいかないと絶対に成立しないというのが今の僕の考え方です。”正身端坐”とか”只管打坐”というのはこの意味の「調」でやらなきゃいけないということです。
(第4章より。各下線と””は筆者)

Photo by Ken Wieland – The Mahabodhi Tree in Bodh Gaya. (2009) /CC BY-SA 2.0

藤田師ならではの誠実さ溢れる口調や表現を少しでもお伝えしたいということから、ちょっと長めの引用となってしまいました。師は、いま多くの坐禅堂で行なわれている坐禅をさほど強くない口調で批判しつつ、ここで述べている「第3の道」こそブッダが菩提樹の下で行なった打坐に違いないという確信から、その追体験としての坐禅(=道元禅師の”只管打坐”の教え)に戻るべきであると、穏やかに、またきわめて力強く説いています。なお、付記として、坐禅の由来は、師が述べるようにブッダではなく別にあるという説も聞かれますが、曹洞宗の禅僧である師の確信(=信仰)に対して何ら影響を与えるものではないでしょう。

本書の巻末付録「坐禅のやり方」に、藤田師の基本的な考えが簡明にまとめられていますが、もっと深く、あるいはもっと具体的に知りたいという方も多いと思います。そこで次回は、〈仏教3.0〉の文脈からそう離れてしまわない範囲で、藤田師の坐禅に関する主な著作をとりあげてみたいと思います。

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その9」 につづく。

〈仏教3.0〉でスッキりする! その9

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)の8回目として、山下師のワンダルマ瞑想法と、藤田師の現代坐禅法のそれぞれごく一端をご紹介しました。その記事はこちらです。
今回は、藤田師の坐禅に関する主な著作をとりあげます。

禅の教室 坐禅でつかむ仏教の真髄 (中公新書)藤田師は、自ら唱導する坐禅のあり方・やり方について「禅の教室 坐禅でつかむ仏教の真髄」という一般向けの入門書を出しています(中公新書;2016年刊)。「そもそも禅てなんですか?」などと、同世代の詩人、伊藤比呂美氏が繰り出す無遠慮と言ってもいいような質問に対し、藤田師がひとつひとつ丁寧に応えていく対話形式の本です。二人の軽妙なやりとりによって、難しい仏教概念が少しずつひも解かれ、たいへん面白く読むことができます。とくに、師が米国での指導経験を通じて磨き上げてきたユニークな言葉づかいや表現のわかりやすさは、難解な仏教解説書や法話に接してきた日本の一般読者にとってきわめて斬新なばかりでなく、今までギブアップしていた仏教に対する理解をぐっと身近に引き寄せてくれるでしょう。そうした特徴が表れた部分を少しだけご紹介すると・・・

たとえば、師は「縁起とは、つながりだ」と述べています。わたしたちは普通、「点みたいな自分が中心にいて、自分とは別個の人や物がその周囲にやっぱり点みたいにバラバラと実体的に存在する」と受け止めていますが、そうではなく、世界はネットワークとして「最初からすべてがつながって存在している」のであると。また、その”つながり”は因果、つまり原因と結果という 「一方的で単線的なつながりではなくて、縁という間接的な条件も考慮に入れたもっと複雑でダイナミックなつながり」であり、師の言葉では”関係性のネットワーク”と表現できるもの、それが「縁起という教え」であるとします。さらに「そういう在り方で自分も含めて宇宙ができて動いていることを初めて発見して、それを表現した」のがシッダールタ(ブッダ)であると述べています。(下線は筆者)

次に、師の実践坐禅論については、前回も「アップデートする仏教」からその一端をご紹介しましたが、この「禅の教室」からも読みどころの一部を拾ってみたいと思います。たとえば、師は「坐禅は苦行になってはいけない」と語り、わたしたちが坐禅に対して日頃感じているような「敷居の高さ」をずいぶんと減らしてくれます。

一照 ・・・このときに彼(シッダールタ)が樹の下で坐ったのと同じことを、僕らがそれぞれの坐蒲の上でやるのが「坐禅」なんですよ。毎回坐禅するたびに、シッダールタが樹の下でやったあの革新的な営みを今ここでもう一度自分の身心で再現するのが坐禅の在り方じゃないかと、僕は思ってるんです。
比呂美 もらった乳がゆをおいしく飲んで、敷き藁を敷いて快適に、体を清めてスッキリして、つまりそういうよい状態で坐ることが革新的な坐禅へつながったんなら、私たちも、あまり蒸し暑い部屋の中で我慢してやったりするのは、坐俸としてはよくない?
一照 そうですね。だから道元さんは、夏は涼しく、冬は暖かくして坐れといっている。(中略) 苦行はしなくていいんです。「坐禅は安楽の法門なり」と言うように、坐禅が苦行になってはいけないんですよ。
(「禅の教室」序章より)

また、藤田師は、坐禅とは「外から他律的に秩序を押しつけて、外的拘束によって秩序を作りだすこと」ではなく、「まわりの環境条件とやり取りをしながら花が内側から咲くように、自由の中から秩序が生まれてくるのを邪魔しないでじっと見守っているようなこと(*)」であると解説しています。わたしたちは坐禅について、型通りに、辛くとも我慢しながら固まったようにじっと坐り続ける状態をイメージしがちですが、そういうのは坐禅本来のあり方ではないと、師は明言します。(*:坐禅を”ポイエーシス”〈ギリシャ語でポエムの語源〉になぞらえた藤田師一流の表現。下線は筆者)

比呂美 そうしたら、坐禅を始めるときに坐ってこんな感じでもぞもぞ動いていても、最初は仕方ないのね。そのうちに段々動かなくなってきて・・・。
一照 はい、でも、実際はそんなに大きな動きにはならないはずです。外からは見えないぐらいに徴妙な動きを通して、各部位が最終的な落ち着きどころを探していきます。
比呂美 自然のままに、体にとって一番のところを探す。
一照 揺らぎながらね。たとえば30分坐るなら、30分全部揺らぎながらでもいいから、より良い坐相にどこまでも肉迫していく
比呂美 坐りながら、揺らぎながら探すわけですね。
一照 より良い在り方を探し続けながら重力と仲良くダンスしながら坐っているのが坐禅なんです。(同)重力とのより良い、フレンドリーな関係。重力でも、床でもいい。
(「禅の教室」第2章より。下線は筆者)

このあと、二人のやりとりは、「重力を作りだしているのは私の重さと、地球の重さとの関係」だから「私は重さを介して地球とつながって」いる。それこそ「まさに縁起のひとつの現れ」である、というふうにダイナミックに展開していきます。読者は、こうした対話を楽しむうちに、いつの間にか「仏教の奥深さ、禅の魅力、坐禅の醍醐味」などを、藤田師から受け取っているという仕組みです。出版社のコピーに「読むと坐りたくなる」とありますが、「禅の教室」は、読者をまさにその通りの気分に導く好著だと思います。

現代坐禅講義―只管打坐への道もう一冊、ご紹介しましょう。藤田師は、上記の「禅の教室」の出版に先立つ2012年、師独自の坐禅探究の集大成というべき「現代坐禅講義 ― 只管打坐への道」(佼成出版社)を発表しました。ここまでごく断片のみをご紹介してきた師の実践坐禅論を、中級者以上向けに詳述した本格的な著作ですが、僧侶や異種専門家ら5名との対談を各章に付すなど、これもまた面白く読める構成になっています。興味を覚えた方はぜひ「禅の教室」と併せてお読みいただければと思います。同書の中身は、現時点の筆者にとってはハードルが高過ぎるため、これ以上のご紹介を控えることにしますが、ここではそれに代えて、「アップデートする仏教」の中で、藤田師自身が同書について語っている部分を引用させていただくことにします。

一照 ・・・ここ十数年で日本にも定着しつつあるヴィパッサナーやマインドフルネス、それから伝統的な坐禅についても、理論面、実践面で、これまで話してきたような「仏教3.0」の観点から根本的な洗い直しの作業をする責任というか使命が僕らにはあるよね。2012年、僕は『現代坐禅講義』という本を出したんだけど、題に「現代」とつけたのは、現代という時代にちゃんとアップデートした坐禅の話をしなくては、という問題意識からだったんですよ。坐禅についていままで言われてきたことをわかりやすく言い直すだけじゃなくて、ほんの一歩でもいいから踏み込んだ表現をしようとしたんですよ。結局それは、良道さんと同じくブッダの樹下の打坐に立ち戻るということでもあるんだけど、そこでも坐禅は意識主導で行う単なるメソッドじゃないということが一つのポイントになってる。あれを書いているときはそういう表現は頭になかったけど、今から思うとまさに「仏教3.0」の坐禅の本を書こうとしていたということになるね。まだまだ書くべきことは残っているんだけど。
(「アップデートする仏教」第6章より)

さて次回は、この記事シリーズの最終回のつもりです。「アップデートする仏教」の意義をあらためて振り返りながら、若干の補足を試みます。

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その10」 につづく。

〈仏教3.0〉でスッキりする! その10

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する9回目として、藤田師の坐禅に関する主な著作をとりあげました。その記事はこちらです。ここまで、当初予定を超える長尺シリーズとなってしまいましたが、筆者としては単にお伝えしたいことが多かったというより、両師への共感が記事の長さに表れたと感じています。今回は最終回として、「アップデートする仏教」の意義をもう一度振り返ってみたいと思います。

サンガジャパン Vol.20 特集「これからの仏教」仏教を”アップデートする”とはどういうことかを見てきましたが、そもそも仏教を宗教としてでなく、科学に近いものと捉えれば、アップデートの語感を納得できるかも知れません。この「仏教は宗教ではない」という主題は、テーラワーダ仏教長老のアルボムッレ・スマナサーラ師が著作のタイトルに使うほど各所で述べられていることですので、ご存知の方も多いでしょう。山下師もまた、宮沢賢治の言葉を引用した「信仰と化学がひとつになる時代ヘ」という一文を発表しています(サンガジャパンVol.20;2015年4月刊)。藤田師も別の場所で、「わたしの言ったことだからというだけで鵜のみにしてはいけない。自分の経験に照らしてよく吟味しなさい」というブッダの言葉(『カーラーマ・スッタ』より)を紹介しています。藤田・山下両師の「アップデートする仏教」はこれらの論旨の流れに沿ったもの、というわけです。(下線は筆者)

日本仏教の現状は(他の伝統宗教にも同様の傾向があるのかも知れませんが)、いわばアップデートを拒否し、固定化・形骸化して本来の意味を失い、人々の「仏教離れ」をなすすべなく見送るだけとなっています。両師は、30年余の検証を経て、そうした仏教を〈仏教1.0〉と位置付けました。両師は出家以来、禅仏教の理論学習と実践の日々を重ね、やがて米国やミャンマーなどで問題解決のメソッドを提供するテーラワーダ仏教などに出会い、これを〈仏教2.0〉とします。それから後も、自らの修行や指導を通じて新たな知見を加え続け、「実践(実験)と検証」を積み重ねていきます。そして、やがて批判的かつ建設的に〈仏教1.0〉を乗り越え、さらに〈仏教2.0〉に内在する課題を解決しようとする両師の軌跡は、明らかに宗教家らしくなく、どちらかと言えば科学者のそれに似ていると思えるのです。

Photo: Burmese-Pali Manuscript Asian Collection /CC BY 4.0 by Gallery: http://wellcomeimages.org/indexplus/image/L0067947.html

また、両師の活動には多くの場合、経典のパーリ語訳、漢訳、日本語の古典、現代日本語、そして英語(やその他の西洋語)といった多言語の障壁でできあがった時空世界を往還するという困難なプロセスが、多かれ少なかれ付随しています。それは付随的であると言っても、単なる論文や文学作品の翻訳などとはやや異質の、高度な翻訳的作業であろうと想像できます。両師がこれからも果たしていくべき一つの重要な役割は、ティク・ナット・ハン師らの先駆者が示した模範に習って、現時点においては〈仏教3.0〉と名付けているところの、本来の仏教のあり方を現代の言葉できちんとわかるように表現して伝えていくこと、そのような新たな言語化の試みに他ならないでしょう。本書の中身を振り返ってみれば、こうした作業が今のところ順調に滑り出していることがよくわかります。

一照 僕らがずっと話してきでいる見聞覚知の主体は、要するにエゴとか我とかと言われているものなんだね?普段われわれが「俺、俺」と言っているやつ。
良道 そうです。
一照 じゃあ、それとは別の主体はどういう名前で呼ばれているの?
良道 これはいくらでもあるじゃないですか、仏教の中では。でも正直言うとそういう仏教用語では言いたくないので、わたしはいま「青空」という言い方をしてます。仏教用語を使うと、何となくわかったような気にさせられてしまうからです。そうするとまたシンキング・マインドの罠に落ちてしまう。
一照 青空か。すると見聞覚知の主体はそこに浮かんでいる雲ということになるね。
良道 そう、シンキング・マインドは雲に当たります。それを浮かばせている青空が瞑想の主体だというのがわたしの言いたいことなんです。
(第5章より)

Photo by Marloes (tussenpozen) – Thich Nhat Hanh in Vught, The Netherlands (2006) /CC BY 2.0

すこし繰り返しますが、両師は、ティク・ナット・ハン師らが欧米での布教ツールとして磨き上げてきた、英語による仏教実践理論その他を新たな知見として取り込み、自らの実践(実験)を通じて自家薬籠中のものとしつつ、それをまた理論にフィードバックして言語化するといった、科学的な実証サイクルに似た活動スタイルを持っています。さらに、藤田師は米国と日本を行ったり来たり、山下師に至ってはミャンマーやスリランカでの研鑽に見られるとおり、地球的な行動半径を持っていることも一つの特徴です。

また、両師は、上で述べたように活動しながら、必要なときにかれら自身の原点、すなわち道元禅師の教えに立ち戻ることを忘れていません。両師は〈仏教1.0〉の古典的な基礎知識を土壌として、20代で出家してすぐの時代に、兵庫県山中の安泰寺で道元禅師の教えを徹底的にたたき込まれており、そのことがかれら自身の揺るぎない土台を形成し、原点になっていると理解できます。そして両師には、テーラワーダ仏教であれ何であれ、新たに獲得したどんな知見についても、いずれかの時点で必ずその原点とつき合わせるという、研鑽上の基本的姿勢を見ることができるのです。

一照 青空ね。息を見る主体は雲じゃなくて青空なんだ。良道師は使いたくないって言ってるけど、あえて聞くんだけど、伝統的に仏教で、”仏性”と言ったり、”本来の自己”と言ったり、”非思量”、”無分別智”とかと言われているものだと理解してもいいの?
良道 そうですね。 (第5章より。下線と””は筆者)

一照 良道師のワンダルマ・メソッドにしても、僕のいまの坐禅の理解や指導法にしても、これまでの話からすると、期せずして二人は安泰寺で学んだことを出発点にしてアメリカやビルマといった海外での経験を経て同じ地点に辿り着いているみたいだね。それが「仏教3.0」だと。道元禅師が坐禅は三界の法じゃないとか、習禅じゃないとか坐禅は「不染汚(ふぜんな)の行」なんだということを繰り返し言っているのも、要するに「仏教3.0」のことを指摘していたんだと思う。僕もそういう問題意識で改めて中国の禅の語録や『正法眼蔵』を読み直して初めてそれが見えてきたからね。道元さんの著作の中にある強為や云為といった言葉に眼が向いたのもそういう読み直しの中でだった。なんだ、もうちゃんと「仏教3.0」のことを言われてたんだ、という感じ。ブッダの教えもちゃんと読んでみればもちろん「仏教3.0」なんだし。

良道 わたしもテーラワーダを通って出発点だった道元禅師に再び出会ったという気がしてます。なるほど、あれはそういうことだったのか、でも昔はそこまで全然読み取れてなかったなという思いですね。曹洞宗のお坊さんだったときに散々読んだけど正直まったく理解できなかった『正法眼蔵』をこれから「仏教3.0」というまったく新しい視点で読んでいきたいと思っています。
(第6章より。下線は筆者)

さて、「アップデートする仏教」への興味は、これからも尽きることはないでしょう。なぜならば、〈仏教3.0〉はおそらく両師自身もそう考えているように道半ばであり、『正法眼蔵』とのつき合わせがまだ一段落していないことからもわかるように、さらに多くの実践(=実験・実証)や追加検証、あるいはマイナー・アップデート等を必要としているからです。また、〈仏教3.xx〉あるいはその先の〈4.0〉といった仏教の将来形には、わたしたち”衆生”もこれまでのように受け身で傍観するだけの立場から、山下師の新たな瞑想法や藤田師の現代坐禅を学んで実践してみることを通じて、アップデートそのものに能動的に参画していく道が開けている、という意義を強く感じるからです。

〈仏教3.0〉を哲学するこうした将来に向けて、両師の役割はますます重要となっていくでしょう。基本的には、ここで紹介してきたような意欲的な活動を、今まで通りオープンに続けていただくことですが、その中には、伝統仏教はもとより、できれば、哲学や精神医学、生命科学などとの交流を通して「アップデートする仏教」を垂直的に深掘りすること、それと共に新たな言語化の試みにさらに磨きをかけていただくことなどが挙げられます。その意味で、すでに一つの快挙があったことをご紹介しますと、両師が気鋭の哲学者、永井均氏を迎えて行なったスリリングな鼎談が「〈仏教3.0〉を哲学する」(春秋社;2016年)という刺激的な一冊になっています。同書を「アップデートする仏教」や、両師の主な著作と合わせてお読みいただくならば、理解も面白さも一層深まることは確実です。

また、世の中には、筆者を含め〈仏教3.0〉の将来性に期待して穏やかに見守っていく人もいれば、それよりは厳しい目で〈仏教3.0〉の真価をあえて問うという立場も当然あるかも知れません。とくに〈仏教3.0〉に自分の治療を託そうとする患者・当事者は当然真剣にならざるを得ないし、また「医療行為が行われていない不思議な病院」と言われた〈1.0〉や、人々に向き合う対処法の限界を指摘された〈2.0〉といった立場にあれば、〈仏教3.0〉に対して厳しい視線を向けがちとなるでしょう。端的には、〈仏教3.0〉がどれほど普及し、その実践によってどれほどの治療効果が得られたかといった見方もされるでしょう。また、そういう状況を一般の人が眺めるとき、〈仏教3.0〉を一種のブームや新興宗教のようなものと、誤って解釈する人も出てこないとは限りません。

したがって、この先、両師はどのような戦略で進めていくのが良いか、ということになります。筆者としては、すでに申し上げた「垂直的な深掘り」と「言語化」に加えて、実践プログラムをほんの少しずつでも日々アップデート(改良)していく心掛け、(具体的に誰かはわかりませんが)ステークホルダーに対してきちんと情報発信していくこと、適切なメディアを選択すること、できれば〈1.0〉〈2.0〉の中にもひとりふたりと理解者を見出し増やしていくこと、また、全体として焦らずじっくり取り組んでいくことなどを提案したいと思います。両師の〈仏教3.0〉はすでに相当な成果だと思いますが、その成果も一部のサークル内に留まったままでは惜しい気がします。まことに僭越ながら、両師には、これから先も着実に足下を固めつつ、世の中に向けてできるだけ広く、水平展開していくことにもぜひ成功していただきたいと願っています。

藤田・山下両師の「アップデートする仏教」を中心にご紹介してきた記事シリーズ、「〈仏教3.0〉でスッキりする!」は、ここでいったん区切りとさせていただきます。