白川静の世界 その5

前回はとくに、字解の一例として「道」という字を選び、白川静氏がどのように読み解いたかをご紹介しました。その記事はこちらです。

background-03ここまで一般読者の立場から、白川氏の著作や学問の一端をご紹介してきましたが、無謀な試みもそろそろ限界のようです。今回は少し違った角度から「白川静の世界」へのアプローチを助けてくれそうな関連書物をいくつかとりあげ、記事シリーズの締めくくりにしたいと思います。どこかですでに一度触れた本も含みますが、あらためてご紹介させていただきます。

 

回思九十年 (平凡社ライブラリー)一冊めは、白川氏が卒寿を迎えた記念として2000年に出版された「回思九十年」(平凡社)です。この中には、故郷・福井の遠い日々に始まり「白川学」として学問を究めるまでの人生を氏が自ら振り返る「私の履歴書」と、その中身をいっそう浮き彫りにする各界著名人との対談・インタビューが所収されています。氏と直接言葉を交わしているのは、呉智英、酒見賢一、白井晟一、今井凌雪、北川栄一、宮城谷昌光、谷川健一、山中智恵子、水原紫苑、江藤淳、粟津潔、石牟礼道子、吉田加南子の各氏です。

「本格的に文字学を始められるきっかけは何だったのでしょう」(呉)
「文字はどうやって誕生してきたのですか」(酒見)
「漢字研究のあとの大きなテーマはなんですか」(同)
「歴史的に大きな文字の改革がおこなわれたのはどのようなときですか」(白井)
「先生は漢字をどういうふうに記憶しているのですか」(水原)
「先生は、東洋という言葉を大事に考えておられますね」(吉田)

予備知識をそなえた13人の聞き手はそれぞれが対話の名手と見えて、だれもが聞いてみたいような質問を次々と繰り出し、その一つ一つに淀みなく丁寧に応える白川氏の誠実さに感動します。氏自身は日ごろ「書くのはいいが、話すことは不得意」と謙遜されることが多かったようですが、この対談集では聞き手の興味関心を満たすだけでなく、おそらく一般読者のことも考え、具体例を挙げたり話題をどんどん膨らませてみたり、ともかく至れり尽くせりの連続です。このような魅力的なやりとりが、この本全体の8割を占めています。第3の入門書、あるいは副読本として最適ではないかと思います。

白川静読本二冊目は、「白川静読本」(2010年・平凡社)です。五木寛之・松岡正剛両氏による巻頭対談にはじまり、47名の著名人が白川氏の人物、学問の広がり、著作をどう読むかなどについて敬意を込めた一文を寄せています。内田樹氏が「白川静先生は、私がその名を呼ぶときに、『先生』という敬称を略することのできない数少ない同時代人の一人である」と書いていますが、『先生』と呼ばずにいられない気持ちや、1910年(明治43年)生まれの超大先輩である白川氏が「同時代人の一人」であることがことのほか嬉しいという気持ちは、まことにその通りだと思います。

白川氏より一歳下の日野原重明氏は別格としても、ここに名前を連ねる著者はみな、氏から見ればずいぶん若輩となります。「白川静先生にお目にかかることができたのは、生涯の幸せである」(水原紫苑氏)というように、氏が世のなかに知られ始めるのと平行して自分も一読者、生徒あるいはファンとなり、同時代人であることに喜びさえ感じるといった気分を、著者らは行間を含む随所からにじませています。そのような気分は、わたしたち一般読者にもかなり共通するものではないでしょうか。

これほど広く親しまれ、尊敬を集めた学者や研究者がいったい他にいただろうかと驚くばかりですが、残念なことに、アカデミズムからの称賛はごく限られているように見えます。一方に熱烈な信奉者を存在せしめる「白川学」ですが、他方では正反対に、自分たちの評価が下がることを恐れてこれを無視し続ける人々もいまだに多い、という状況が想像されます。すなわち「小人の過つ(あやまつ)や必ず文る(かざる)」といったところでしょうか。

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)さて、三冊めは、セイゴウこと松岡正剛氏による「白川静 漢字の世界観」(平凡社新書)です。松岡氏は、2008年2月にNHKの「知るを楽しむ 〈私のこだわり人物伝〉 白川静 ― 漢字に遊んだ巨人」という番組で4回にわたって語り手を務め、そのときのテキストをもとに本書をまとめました。じつは本書を除くと、白川氏の人物・学問の全体像について本人以外が紹介する本は、評伝であれ研究書であれ世の中にまだないようです。その意味で本書は、勇気をふるって刊行された唯一の「白川静論」ということになります。

松岡氏は番組出演と本書の刊行という機会を活かして「白川静」ないし「白川学」を世に知らしめる水先案内の役割を十分に果たし、いまも果たしていると思います。ただ紹介するだけにしても、誰もが容易にできる仕事ではありません。松岡氏の場合、そういう難しい役割を引き受けるにあたって何が氏を支えたのでしょう。それは、一つには氏の「白川静」を尊敬する純粋な気持ち、もう一つは「白川学」を畏怖しつつも理解したいと欲する心=「博覧強記たる氏の本分」ではなかったかと想像します。

白川静の世界―漢字のものがたり (別冊太陽)四冊目は「白川静の世界 ― 漢字のものがたり」 (別冊太陽)です。この本はムックですから当然ですが、写真や挿絵によるビジュアルを重視しています。白川氏は無限の忍耐力で、甲骨文や金文の文字を一つ一つ解読することによって、古代中国の民俗・文化に深く分け入っていき、ついに当時の人々の精神世界にまで到達しました。その偉業は氏の膨大な著作で証明されていますが、わたしたちの平凡な頭脳ではそれらすべてを繰り返し読んだとして、氏のレベルの十分の一ほどを手に入れることができれば大いに幸運と言わねばなりません。

そこで、一般読者がさらに「白川学」や「白川静の世界」にアプローチするにはどうすれば良いかですが、うえでご紹介したような、氏の肉声を疑似聴覚で感じることのできる対談・インタビューに加えて、ムック本の大判ビジュアルから直接視覚で感じとる情報がその手助けになるのではないかと思います。具体的には、殷代の青銅器、甲骨文・金文そのものの写真や、氏がそこからトレースした文字を手描きで羅列した「白川静ノート」のサンプル、また少しおまけ的ですが、氏が殷代に似るとする日本古代を偲ばせる祭祀のルポルタージュ等々が掲載されています。

DVD 白川静 文字講話 全24巻この意味から注目されるのは、白川氏が88歳から94歳までに行なった連続講演を収録した「文字講話」DVD全12巻(2008年・方丈堂出版)です。筆者もこれまで視聴する機会はありませんでしたが、在りし日に氏が熱心に講義する姿を映すたいへん貴重な記録といえますので、いつかぜひ拝見したいと考えています。一方、いつかは「字書三部作」を座右に置いて活用する筆者自身という「愚か者の夢」も抱いております。DVDか字書、そのどちらを早く実現できるか(あるいはできないか)を考えるだけで非常にわくわくします。

少々名残り惜しいような気もしますが、「白川静の世界」その一端をご紹介する記事シリーズは、ここでひとまず区切りにしたいと思います。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。