白川静の世界 その3

前回は、白川静氏の初の一般書である「漢字」(岩波新書)のつづきをご紹介しながら、「文字逍遥」、「別冊太陽 白川静の世界」などの関連著作に触れました。その記事はこちらです。

漢字百話 (中公新書 (500))今回は白川学の2番目の入門書、「漢字百話」(1978年・中公新書)をご紹介します。1番目の「漢字」(1970年・岩波新書)は初学者には少々とりつきにくさがありましたが、こちらはその点を踏まえた工夫も施されており、好みによってはこちらから読むという選択肢もあるでしょう。また、タイトルや体裁は100篇のアンソロジーのような感じで、どこからでも読めるといえば読めるのですが、基本的には一篇ごとに論旨が進みますので、とくに初めての人は通し読みが良いでしょう。

わたしたち日本人はふだん何気なく漢字を使用していますが、白川氏は「3000年を超えるその歴史において、漢字が現代ほど痛ましい運命に直面している時代はないであろう」と、ひとり危機感を抱きつづけてきました。そう聞くと、今ほんとうにどうなっているのか心配になります。漢字は「表意文字」であると筆者らは教わり、白川氏も著作中においてそのようにおっしゃっていますが、ウィキペディアなどを見ると、現在の文字体系分類上では、聞き慣れない「表語文字」となっています。

小臣艅犀尊銘文
小臣艅犀尊銘文

こうした分類自体が、おそらく西洋における19世紀以降の言語研究の流れをくむものであり、漢字文化圏における漢字研究の成果をすべて包含したものではないと想像できます。白川氏が「文字としての漢字は、通時的表記として古今にわたる大量の文献をもち、独自のすぐれた条件をそなえている」にもかかわらず、「漢字は久しく文字論からも外され、敬遠あるいは無視されていたように思う」と述べている通りでしょう。

漢字は、世界で使われている文字の中で最古のものです。また文字数では10万字以上と、他を圧倒する文字体系であると同時に「文化の体系」であることは明白です。古代中国から周辺の諸国家・地域に向かって、言語というよりむしろ文化上のインパクトを波及しながら、「漢字文化圏」を形成しました。ところが、20世紀に入るとベトナム、モンゴル、北朝鮮は漢字を廃止し、韓国も事実上使わなくなり、現在使用するのは、中国、台湾、日本、その他シンガポールの一部などとなっています。

白川氏は中国について、「『カナ』も『かな』もなく、年齢や知能に応じた段階的学習の方法がない。おかあさんは『媽媽』であり、(中略)中国における簡体字への要求は、切実を極めている」として、日本と事情の異なる点に一定の理解を示しつつも、革命以来、漢字に字形的意味を認めないとの基本方針を今もつらぬき、大胆な文字の簡体化を推進していることについて遠まわしに危惧を表明します。

鐃(殷時代)
鐃(殷時代)

このままでは「常用の漢字をすべて簡体化しても、カナのような表音文字にはならない。形と意味とを失った無器用な符号が、累積するだけで」あり、「やがては常用文字のほとんどが、文字の本来の形義を失った、単なる記号と化するであろう」と。またその先において、もしベトナムのように全面放棄するならば「ベトナムとちがって、他に例をみない多くの文化遺産を擁する中国としては、漢字の放棄は文化遺産そのものを廃絶することを意味していよう」として、中国ひいてはわが国の漢字世界が滅亡しかねないことを警告します。

翻って日本の現状はどうか。「漢字の伝統は、わが国においてはその訓義を通じて、漢字を国語化するという国語史の問題として存した」のですが、その過程で、伝統の否定に連なる「字の訓義的使用を多く廃する」ことを行ない、中国と同じように漢字の意味体系性を否定して「多くの新字を作り、どの部分をどう改めたのか容易に判別しがたい整形美容的変改を行なった」と指摘します。さらに、かかる意味体系性の否定について「いや、事実はその否定というよりも、むしろ漢字の字形学的知識の不足が、これをもたらした」とします。

confucius_tang_dynasty少し難しいかも知れませんが、白川氏はこのような危機意識から、本書の大部分を使って、漢字本来の造字法やその構造原理をていねいに解説しつつ、漢字の基本的な諸問題を考察しています。氏はこれからの方向性として、「字の構造的な意味が理解されれば、そこから簡体字・新字を作るとしても、おのずからその方法があるであろうし、また学習も容易となる。ともかくも、正しい字形の解釈学があってのことである。孔子のいう、『先づ名を正さんか』である」と訴えます。氏が読者に広く共感を求めているのは、まさしくこの点でありましょう。

また、白川氏は、「文字の使用に、つねに語源的・字源的知識を必要とするわけではないが、ことばやその表記が何の意味体系をももたぬということはなく、それがなくては、文字は全くの符号となる」として、字は訓よみによって意味が把握され言葉となることを、次のように、残念な例を用いてとても分かりやすく示しています。

「音訓表においては、『おもう』『うたう』『かなしい』などの動詞・形容詞は、思・歌・悲のそれぞれ一字だけに限定されているが、国語のもつニュアンスはもっと多様である。字音としては懐・念・想・憶などの字もあるが、そのように『おもう』ことはできず、また唱・謡の字もあげられているが、音訓表では『唱う』ことも『謡う』こともできないのである。」

meiji-no-bungoなるほど、これは確かに愚かな事態です。ご承知のとおり、日本人は日本の「国字」としての漢字や、「かな」(カタカナ、ひらがな)を発明し、また熟語を造るなどして、これまで長い年月をかけて日本語を育ててきました。その結果、日本語は中国語以上に便利かつ豊かな言葉となり、世界に類を見ない日本文化の発展をもたらしたと思っていましたが、白川氏の指摘を受けるまで、漢字の核心である意味体系性についてずいぶん見落していたのです。

目の前に本書を置き、あらためて漢字や日本語の成り立ちを考えてみますと、日本人は漢字が本来持つ可能性を活かし、日本語の完成度を高めてきたことは事実であり、そうしたことをやり遂げてきた先人の知恵や感性に感動を覚えつつも、近代以降は、一方でせっかく育ててきた日本語を壊すようなまねもしていたわけです。かの文化大革命や原理主義者による遺跡破壊まで連想するのは心配のし過ぎかも知れませんが、大いに怪しみ、危ぶむべしということではないでしょうか。

もし白川氏による純粋で真摯な学問からの提唱がなければ、日本人はこの先、そのような気づきに至ることなく自暴自棄を犯すことになっていたかも知れない。そう考えると、氏にはいっそう感謝してもしきれぬ思い(想い?念い?)です。

白川静の世界 その4へつづく。

新訂 字統新訂 字訓字通 [普及版]

 

 

 

 

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。