白川静の世界 その2

前回は、白川静氏の初の一般書である「漢字」(岩波新書)のエッセンスに触れ、宮城谷昌光氏による関連作品などをご紹介しました。その記事はこちらです。

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)「漢字」(岩波新書)の表紙裏には、「古代中国における人々の生活や文化を背景に、甲骨文・金文および漢字が形づくられるまでの過程をたずね、文字としての漢字がどのようにして生まれ、本来どのような意味を持つものであったかを述べる」と趣旨があります。本書はたしかに漢字がテーマですが、実際に読み始めると、タイトルや紹介文から連想した身近な漢字そのものの話というよりも、古代中国の姿に迫るほうに重心があるため、多くの方は多少の戸惑いを感じるかも知れません。筆者もそうでした。

白川氏の出身地 福井市 足羽川桜並木
白川氏の出身地 福井市
足羽川桜並木

白川氏は若い頃から「詩経」をよみ「万葉集」をよんでいました。そこから氏の学問は「東洋的なものの源流を求める」ことが目的となり、中国古代文学の研究を始めます。そして、その研究上、文章の単位である漢字を研究することに自然と進み、その成果として漢字の原義を体系的に明らかにされたわけです。つまり、白川氏の学問体系全体(=白川学)から見れば漢字学・文字学はその一部に過ぎないということから、構想に数年をかけ一般書としての平易な表現を求められた本書でしたが、結果的に、そもそも難解である「白川学」が滲み出てしまったといえるでしょう。

しかし、1970年に発刊されたころの読者は、幸いそのあたりを好意的に受け止めたようであり、読みにくさから売れ行きを心配した編集者を安堵させたとのことです。「漢字」(岩波新書)は図らずも、そのように難解でありながら面白く、かつ深甚という「白川学」の不思議な魅力を持つことになりました。入門書というには少々ハードルの高い本ですが、ぜひトライして下さい。読み進むうちに引き込まれ、大まかなところを感得しながら、やがて氏の研究への共感やこのうえない読後の達成感を得ることは間違いありません。(次回はもう一点の入門書「漢字百話」も紹介します。)

常用字解 第二版色々な漢字がどんな意味や意義をもっているのか、といったより具体的な方面に興味をお持ちであれば、本書と併せて、中・高校生向けながら大人も活用できる基本字典、「常用字解」を座右におすすめしたいと思います。さらに本格的な関心をお持ちの場合は、「字統」・「字訓」・「字通」の字書三部作を、まずは図書館などで手にとって確かめ、それから生涯の友とされるかどうかをじっくり検討されてはいかがでしょう。

新訂 字統新訂 字訓字通 [普及版]

 

 

 

 

ノーベル賞選考委員に理解してもらうことは困難ですが、白川氏の学問が世界最高水準にあることは疑いありません。ただ、国内においても残念ながら、そうした評価が確立するのは氏が最晩年に至ってからのことでした。「漢字」(岩波新書)発刊に際してはこんなこともありました。当時東大教授だった藤堂明保氏が、岩波から依頼されたこの本の書評(雑誌「文学」)において、白川氏の漢字解釈を全否定したうえ、「文字学をああいう人に書かせるべきではない」という趣旨で出版社や編集者をも批判したのです。

文字逍遥 (平凡社ライブラリー)後日、白川氏はこれに毅然と反論しましたが、藤堂氏はその反論を無視し、論争(と見えるもの)は世人に注目されながら、噛み合わないままに終了したというものです。問題となった藤堂氏の書評についての白川氏による所見は、「文字逍遥」(1987年・平凡社/1994年・平凡社ライブラリー)という論考集のなかに、「文字学の方法」として収録されています。

もとより、白川氏の研究内容はきわめて強靭であり、これくらいで潰れるようなものではありません。では何が悲しいかといえば、藤堂氏ほどの揺るぎない業績を誇る学者が、白川氏の独自研究によっておそらく自らが脅かされるように内心で狼狽し、一時とはいえ礼儀も何も見失ってしまったことです。また、周囲がこのできごとを見て「主流と反主流」、「多数派と少数派」、「正統と異端」の争いなどと分かったように囃し立てたことでした。学術論争ならばあって然るべき、むしろ活発に行われてほしいものですが、もう少し知恵のある進め方をしてほしかったと思える逸話です。

白川静の世界―漢字のものがたり (別冊太陽)後年、梅原猛氏は白川氏との特別対談において、「前は先生を偉いが異端の学者だと思ってました(中略)しかしだんだん、先生が一つの大きな学問を開かれているんだという、そういうことを実感し始めたのです」と正直に語っています(「別冊太陽 白川静の世界」より; 2001年・平凡社)。白川学が長い間、実際に異端視されていた事情がよくわかります。また、白川氏自身も「私の履歴書」において、「私はいつも逆風の中にあり、逆風の中で、羽ばたき続けてきたようである」と述懐しています。アカデミズムは度しがたい、という典型例かも知れません。

回思九十年 (平凡社ライブラリー)白川氏の「私の履歴書」は、魅力的な対談集と合わせた「回思九十年」(2000年・平凡社)に所収されています。また、この本の呉智英氏によるインタビューのなかに、逆風に関連してもう一つ、白川氏の味わい深い言葉がありますのでご紹介します。呉氏が「(学会において)孤高の位置にいらっしゃったと思いますが、それはなぜでしょうか」とたずね、白川氏は次のようにこたえます。「詩においては『孤絶』を尊び、学問においては『孤詣独往』を尊ぶのです。孤絶、独往を少数派などというのは、文学も学術をもまったく解しない人の言うことです。(中略)学問の道は、あくまでも『孤詣独往』、雲山万畳の奥までも、道を極めてひとり楽しむべきものであろうと思います」

余談ですが、最近出される新書の大半は、雑誌のように寿命の短いものとなっています。一時的に消費されるか、あるいは賞味期限切れになればさっさと別のものに入れ替える、といった単なる情報媒体の位置づけのようです。出版者が自ら新書を、そうした商業的価値を偏重した「商品」や、流行を追うだけの「便乗商品」に貶めることが時代の常識のようになっています。これでは質が落ちるばかりであって、自分の首をしめるようなものといささか残念に思います。

ここで紹介した「漢字」(岩波新書)は46年前に生まれた書物ですが、まだこれから数十年・数百年と読み継がれ、生き残ってていくでしょう。本書の価値は、たとえばこの1年に発行されたすべての新書を合わせた価値以上であると断言したいような気分です。実際にそのような比較を行なうことは不可能ですが、案外ご賛同下さる方も多いのではないでしょうか。

「私の漢字研究は、古代文化探求の一方法として試みてきたものであり、無文字時代の文化の集積体として、漢字の意味体系を考えるということであった」 白川氏は本書のあとがきで、あらためて発刊の趣旨や経緯をこう述べたうえで、いちばん最後に「国字問題としての漢字、また漢字教育の問題にも関連の多いことであるが、それらのことについては、別の機会をもちたいと思う」 とご自分に対して宿題を設けます。

漢字百話 (中公新書 (500))白川氏はそれから7年後の1978年、67歳のときに「漢字百話」(中公新書)というかたちで、その宿題を完成し、読者への約束を誠実に果たしました。同書の表紙裏に、氏の現状認識が要約されています。

「3000年を超えるその歴史において、漢字が現代ほど痛ましい運命に直面している時代はないであろう。中国が字形を正す正字の学を捨て、わが国で訓よみを多く制限するのは、彼我の伝統に反する。また、両国の文字改革にみる漢字の意味体系の否定は、その字形学的知識の欠如に基づく」 というものです(下線は引用者)。次回、この核心部分について、もう少しくわしく見ていこうと思います。

白川静の世界 その3へつづく。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。