「おおきな木」の見事な曖昧さ その4

前回は、シルヴァスタインの絵本の名作「おおきな木」の3回目として、日本人の大人がこの木を「無償の愛」を体現する母親に見立てる、という傾向について考えてみました。その記事はこちらです。

おおきな木さて、守屋慶子氏の研究において、この木を「母(または父)親」として見る子どもたちは日本で80%近くに上りますが、ほかの3ヵ国でも20~40数%とそれなりの比率です。各国のサンプル数が分からず厳密なことは言えませんが、ある仮定に基けば(以下同様)4ヵ国全体で45%ほどになります。次いで「友人」や「自然」と見る率が意外に多く、各々20~25%程度あります。”意外に”と思ってしまうのは、筆者自身も日本人的感覚から逃れることが困難という証拠でしょう。この木を「神」と見る率は、逆に意外と少なく、残りの10%弱となっています。これらの読み方について、もうすこし詳しく見ていきたいと思います。

まず、この木を「友人」と見る子どもたちの感想をご紹介しますが、その前にやや心配なことを一点指摘しておかねばなりません。それは、このグループに日本の子どもたちがほとんど含まれていないことです。つまり、日本の子どもたちには、少年を献身的に助けるイメージとして「友人」は見えず(また「父親」さえほとんど見えず)、ただ「母親」だけがそのイメージを担っているという事実があることです。守屋氏もこの点に着目し、もしかすると「日本の社会は、子どもにとって不幸で淋しい社会といえるかもしれない」と述べています。(この傾向は韓国もやや似ているようです)

「・・・それは友情関係、与える・もらう関係についての物語でもある。だけど一方は与えるだけ、もう一方はもらうだけ。このような関係はとても不均衡に思える。でも、ある意味では完壁な関係だ」(英国、16歳)、
「もっているものすべてを与え、自分自身のことを考える前に他人のことを考えるということを取り上げたいい物語だ」(英国、13歳)、
「もっているものすべてを友人に与えることで人は幸せになることができるということを私は学んだ」(英国、13歳)

日本人の子どもたちは、上記の英国の子らのように木を「友人」と見る感想をまったく述べていない。わが国でもしも、ほかの国々と比べて友情という観念や道徳的価値観が育ちにくいとすれば、それは一つの社会的欠陥につながりかねない問題であり、教育上の大きな課題と捉える必要があるかも知れません。そこまで大げさに考えなくても・・・というご意見もあるでしょうが、念のために、教育に携わる方々の詳しい検証や対応が望まれるところであると、筆者はそのように感じました。

次に、この木を「自然」と見る子どもたちの感想を見てみましょう。この木は、擬人化されていようとも植物であることに変わりなく、すぐさま森や林へと連想をつなげることは、文字通り自然な考え方であると思われます。さらに「人間すべてが、この少年のように無自覚に自然環境を破壊している」などと、子どもたちが発想を飛躍させたとしても、そこに「自然を尊重する」という素直な感性、あるいは現代人としての素養(健全な科学精神)のめばえを見てとるならば、これ幸いといえるのではないでしょうか。

「たいへん現実的な話だとおもった。というのは、このごろ人聞はこのようなもので、ますます欲しがるだけになっている。そして自然や動物はそのことに対してなにひとつもんくをいうことができない」(スウェーデン、14歳)
「年をとるにつれて、人は、自然の破壊的利用は人間を救けるものではないということに気づくということをこの物語は示している」(英国、16歳)
「りんごの木は自然で少年は人間。自然は人間より長く生き、生きている間人間を助ける。最後に人聞が辿りつくところは自然。人間はわがままで勝手で自分のことしか考えないのに、自然はそんな人間でも大きく優しく包んでくれる」(日本、中2)

次にようやく、この木を「神」と見る見方をご紹介できます。ボーガン氏は、「キリスト教の聖職者の中には、じぶんをかえりみず男の子に深い愛情をそそぎ、喜んでじぶんを犠牲にし、なによりかぎりなく深い許しの心をもつ木を、イエス・キリストの象徴だと考える人たちがいる」と指摘しています。作者のシルヴアスタイン自身は名前から判断するとユダヤ系のようであり、あるときキリスト教に転向したとされていますが、「おおきな木」に何らかの宗教色が盛り込まれているという根拠は、少なくとも作者周辺からはまったく聞こえて来ないようです。

守屋氏の研究で、木をキリスト教の神に重ね見るのは、英国や韓国の一部の子どもたちです。いずれの国の場合も、子どもたちは「自分の体を切り刻んでまで与える」限りなく寛容な人格的存在としての「神」というようにこの木を捉えています。

「木は少年を幸せにするためならあらゆるものを与える気でいた。少年は木に関心を失ったが、助けを求めるときには木のところに戻ってくるのだった。それはちょうど神のもとを去り、そして救いを求めに再び戻ってくる人のようである」(英国、14歳)、
「木は神を、そして少年は人間をそれぞれ象徴しているといえる。(中略)神は木が少年を愛したように自己を捨てて人々を愛する」(英国、17歳)、
「あの木は神かもしれない。いつもわれわれを待ち、すべてを与えわれわれを愛している。一人子イエスをわれわれのために死なせたように」(韓国、16歳)。

「おおきな木」の見事な曖昧さ その5へつづく。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。