「おおきな木」の見事な曖昧さ その3

前回は、シェル・シルヴァスタインの絵本の名作「おおきな木」(あすなろ書房)をご紹介する2回目でした。その記事はこちらです。

「おおきな木」が実際にどのように読まれてきたか、また読まれているか、この絵本の多様な解釈の可能性について見ていきます。まずとっかかりとして、出版社の宣伝コピーを見てみましょう。こんなふうに謳っています。「幼い男の子が成長し、老人になるまで、温かく見守り続ける一本の木。木は自分の全てを彼に与えてしまいます。それでも木は幸せでした。無償の愛が心にしみる村上春樹訳の世界的名作絵本」(下線は筆者)。

おおきな木「おおきな木」に接した日本人の大人の、圧倒的に多くのみなさんが「惜しみなく与える無償の愛に感動した」という趣旨の感想を寄せています。出版社もそうした多数派といえそうな感想に共鳴しつつ、人気を高め続けていきたいとの意向でしょう。そのこと自体は、まことに素直な対応と言えるかも知れませんが、ただこの絵本が世界で実際にどのように読まれているかという観点に立つと、これこそ理想的な「無償の愛」の表現といった解釈も、じつは数多ある読み方・読まれ方の一つに過ぎないことが判明します。下のほうで徐々に見ていきます。

原著において、擬人化された木は女性であり “She”と呼ばれています。邦訳も言葉づかいによってその設定に従っており、また物語の中では、女性であるとする木の、少年に対する「限りない優しさ」という関係性が明示されていきます。その結果、多くの読者がこの木から「母性」を感じとり、ついで、木が示す献身的行為のもとは「母の子に対する愛情」にほかならないと見てとるのは、たしかに(日本人の感性において)きわめて自然であります。

Photo by Arturo Espinosa – Erich Fromm (2013) / CC BY 2.0

本田錦一郎氏もあとがきで、「愛とは第一に与えることであって、受けることではない」というエーリヒ・フロム(Erich Fromm)の言葉を引用し、「おおきな木」にも通じると書いていますので、それにわが意を得たりと感じた読者も多かったでしょう。大人の一般読者からの感想例を読ませていただくと、「愛、人に尽くす親切というものは無償であって初めて完成されたものだと思う。人というものはこうありたい」とか、「最後まで子どものために献身的な愛に生きようとする」など、出版社が期待するとおりに、感動の声は尽きないようです。

また、後先になってしまいましたが、守屋慶子氏の研究では、日本の子どもたちも8割近くが大人たちと同様にこの木を母親に見立てています。その代表的な感想をご紹介しておきます。

「・・そしてりんごの木は少年が帰ってくるまで長い間まっていた。あのりんごの木が僕には母のように思えた」(中1)
「りんごの木がお母さんで、あの少年が子どもという感じがした。子どもは大きくなるにつれてお母さんから離れていく。お母さんは子どものことならどんなことにもつくす」(中2)

しかしながら、このように木を母親と見、献身的な愛情に深く感じ入る私たちの感性がじつは日本人に特有なもので、必ずしも世界で一般的でないとしたらどうでしょう。なかには「そんなことあるはずない」と違和感を覚える方もいらっしゃるでしょう。ただ申し上げたいのは「無償の愛」自体はもとより、みなさんの読み方がおかしいなどということではもちろんなく、「おおきな木」について、私たち日本人と異なる読み方をする読者が世界には大勢いるという事実、そういう価値観の多様性・多元性に目を向けていただきたい、ということです。

まずは、前出のボーガン氏が紹介する異論を引用してみましょう。「女性解放論者(フェミニスト)や進んだ考えをもつ人は、シルヴアスタインが、この木を女性にしたことを重視している。この木は、『搾取される女性』というテ-マの一つだというのだ。それは、子どもの幸せのために、じぶんの幸せを犠牲にする母親であり、夫のために、やはり自分の幸せを犠牲にする妻であり、愛に目がくらんで、じぷんを利用するだけの男のために、人生をむだにしているのに気づかない女性のことだ」と。いささか極端なようですが、欧米ではこのような見方は珍しくありません。一方、日本の本田氏は「与えることに犠牲を見てはならない」と述べ、こうした議論に取り合わないようすすめています。

次に、守屋氏は、日本では木を母親に見立てる子どもたちが(大人同様に)最も多いとしたうえで、以下のような注目すべき感想例を挙げています。

「りんごの木は優しすぎる。それは少年の願いを自分の体を切ってまで叶えてあげようとしたから」(小6)、
「この木は少年のヒモやと思った。アホな木や」(高2)、
「・・なにもかも取られたのに、幸せだったというのは、少年の役に立てたということで満足していたからだと思った」(中1)、
「・・少年を自分のものにしたいという気持ちがりんごの木にあったに違いない」(高2)、
「・・少年は枝を切ったりりんごを取ったりした。それでもりんごの木は何も言わなかった。一人ぼっちになるのがいやだったからだろう」(中1)、
「・・マザコンの少年と子離れしない親がいるみたいだ」(中2)、等々。

なんともシビアで辛辣な感想に驚かされます。少なくない子どもたちが、木を「優しすぎる」、「アホ/バカ」とか、「少年を自分のものにしたい(というエゴがあった。つまり無償ではない?)」などと、木を否定的に、あるいは否定もしないが肯定もしない評価を述べています。こうした感想は、現実の大人社会にある何らかの認識や価値観を反映していることは明らかです。大人たち、とくにこの木を「無償の愛」を体現する母親の象徴と考えるみなさんにとっては衝撃的かも知れませんが、うえのどの子も、それぞれに一つの読み方をしていると認めざるを得ないのではないでしょうか。

ふたたびボーガン氏によれば、この木を何と見るかに関わらず「子どもにとってよくない(過保護の)手本」と手厳しく判断する大人たちもいるそうです(カッコ内は筆者)。「この意見によると、木はかぎりなく心が広く、男の子の気まぐれをなんでも聞きいれるので、男の子がわがままになってしまったというのだ。ハーバード大学のある有名な教授は、この本を、『自己中心的な世代のためのおとぎ話で、自己愛ナルンシズムの入門書で、搾取の問答書』とまでいっている」と紹介しています。

「おおきな木」の見事な曖昧さ その4へつづく。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代前半。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。