「おおきな木」の見事な曖昧さ

今回は、アメリカで1964年に出版され、50年以上も世界各国でロングセラーを続けている絵本の名作、「おおきな木」(The Giving Tree) をご紹介したいと思います。著者はシカゴ生まれのシェル・シルヴァスタイン(Shel Silverstein, 1930-1999)という人です。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、シルヴァスタインは絵本作家としてのみならず、多方面で非凡な才能を発揮しました。

おおきな木

たとえば、1970年にグラミー賞をとったジョニー・キャッシュのヒット曲「スーという名前の少年(A Boy Named Sue)」の作詞を手掛けています。また1984年には、かれ自身が朗読し、歌って叫んだ(recited, sung and shouted)詩集アルバム、「歩道の終るところ (Where the Sidewalk Ends)」でもグラミー賞(ベスト・チルドレン・アルバム)をとりました。なお、同詩集は倉橋由美子さんの美しい訳により、単行本としても出版されています。

At San Quentin [12 inch Analog]Where the Sidewalk Ends歩道の終るところ

 

「おおきな木」は、日本では1976年に本田錦一郎氏が訳出しましたが事情があって絶版となり、その後2010年に読者の要望に応えるかたちで、あすなろ書房から村上春樹氏による新訳版が出版されました。まだ旧訳版(本田訳)も図書館などにはありますので、両者を読み比べてみるのも面白いと思います。原題(The Giving Tree)を「おおきな木」と訳すことはそのまま継承されましたが、本文の訳出においては、この二人の個性がそれぞれ際立っているからです。

考えてみると、絵本の翻訳は簡単そうに見え、これほど難しい仕事もないように思えます。原文は一般に、子ども向けに短くやさしいことばで書かれ、音感やリズム感が意識されており、ときには韻が踏まれています。原文の特徴や味わいを尊重しながら、本来の意図を汲みとって意訳を行ないますが、けして過ぎることのないように慎重な作業が求められます。そこに正解はなく(あるいはいくつもの正解があり)、翻訳者としての技や苦心の違いが結果に表れることは当然といえるでしょう。

翻訳というアウトプットの出来映えについて、読者はときに疑問を抱くこともありますが、それ以上に、ある種の個性を感じさせる「名訳」に出会う喜びを期待しています。そのような意味で「おおきな木」という絵本は、まず原文で読み、かつ本田訳と村上訳という二つの名訳を楽しむことのできる「一粒で3度おいしい」作品といえるのではないでしょうか。また、世の中には翻訳させずに埋もれてしまう名作もおそらくあることを思えば、複数のそれぞれ一流の翻訳を持てた本作は「幸せな作品」であり、ぜひ手にとって楽しんでいただきたいと思います。

ここでお二人の異なる訳例をひとつだけご紹介しおきますと、たとえば、主人公ははじめ少年として登場し、やがて大人に成長していくのですが、原文では一貫して「the boy」と呼ばれています。本田訳では、この少年を「ちびっこ」、「そのこ」、「おとこ」、「よぼよぼの そのおとこ」というふうに表現を変えて(意訳して)いきますが、一方の村上訳では、少年は老人になっても「少年」と原文を忠実に訳しています。どちらをより支持するかは、みなさんしだいです。

さて、ではそろそろ物語の概要をご紹介しましょう。本作の原題(The Giving Tree)を直訳すれば「与える木」です。この擬人化された一本の「与える木」と一人の「少年」が主人公であり、同時に登場者のすべてということになります。両者の生涯にわたる長い交流が、絵本という限られたスペースに凝縮され、淡々と描かれていきます。

はじめ、木と少年は互いに大好きな友だちであり、いつも楽しく遊んでいました。しかし、時が経ち、成長した少年は木を一人ぼっちにして、何か欲しいものがあるときだけ戻ってくるようになります。少年がお金が欲しいと言うと、木は「私の果実を売りなさい」と言って果実を与え、次に少年が家を望むと枝を与え、ボートを望むと幹を与えてしまいます。さらに時が経ち、老いて帰って来た少年が休む場所を望むと、木は、ついに切り株となってしまった自分に腰かけるよう勧めます。木は生涯を通してすべてを少年に与え続け(別の見方では失い続け)、それでいつも幸せ(happy)であった、というあらすじです。

本作は何ごとかを諭す意図をもった「寓話(allegory)」のようにも見えますが、その寓意は何かと考えてみても、はっきりと指摘することが難しい作品です。つまり、言わんとすることがきわめて巧妙に、曖昧にぼかされているため、読み手によってさまざまな読み方や解釈が成り立つようにできているのです。本作最大の特徴は、この見事な曖昧さにあるのではないでしょうか。一般に童話や絵本が広く売られ、読まれるためには内容の曖昧さを敬遠する考え方もありますが、本作の場合、むしろその曖昧さがさいわいして広範な読者を獲得し、いい意味で出版業界の常識を裏切ってきたのではないかと思われます。

さまざまな読み方や解釈とは、たとえば次のようなことです。この物語の主人公(木と少年)ははたして幸せなのか、そうではないのか? 作者は見返りを求めない愛や犠牲を讃えているのか、それに甘える少年を咎めたいのか? この木は母親を意味しているのか、神、自然あるいは他の何ものか、あるいはそれらをすべてひっくるめているのだろうか? 神とすればこれほど寛容であろうか、もっと厳しいのではないだろうか? この少年は典型的な子どもなのか、だめな人間なのか、それとも人間全体がこうだと言いたいのか?

「おおきな木」の見事な曖昧さ その2へつづく。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。