「唯幻論」とはなにか

people-27今回ご紹介する本は、岸田秀氏といまは亡き伊丹十三氏の対談を収めた、「哺育器の中の大人 - 精神分析講義」(ちくま文庫)です。この本の最初は、いまからおよそ40年前、1978年に朝日出版社が “Lecture books”というシリーズの第3巻として刊行したものですが、いま読み返してもなかなか面白いし、知的好奇心を満たしてくれる好著といえます。筆者は、社会人となってまもない頃にこれを読み、「目からウロコ」のような読後感を持ったことを思い出します。

哺育器の中の大人[精神分析講義] (ちくま文庫)「精神分析講義」というサブタイトルが学術的でとりつきにくい印象もありますが、実際は、(当時)新進気鋭の心理学者である岸田秀氏の理論を、才人として知られる伊丹十三氏がわたしたちを代表して聴くという対談形式であるため、非常にわかりやすく読めることが特徴です。岸田氏には「ものぐさ精神分析」という代表的著作がありますが、まずこの対談集である「哺育器の中の大人」で頭を慣らしてから、そちらの本篇にトライいただくのがいいかなと、勝手に思っております。もちろん、その逆でもかまいません。

世の中には「唯物論」と「唯心論」がある、と筆者に教えてくれたのは高校の世界史の先生でした。自分が死んだ後も世界が続くと考えるのが「唯物論」であり、自分が死ねば世界も終わりと考えるのが「唯心論」だと、その先生は言いました。ほかに仏教の「唯識論」があると後から知りました。さて、(筆者自身を含めた多くの読書人が)これでほぼ全部だろうと思っていましたところ、とつぜん岸田氏が「唯幻論」というユニークな理論体系を発表したわけです。誰もが「これは一体なんだ!?」ということになりました。

ものぐさ精神分析 (中公文庫)本書で聞き役・生徒役をしている伊丹氏の場合は、当時、子育てを通じて、自分とは何か、人生とは、などと深く考えていたところに岸田氏の「唯幻論」に出会いました。「自分の目の前の不透明な膜が弾けとんで、目の眩むような強い光が射しこむのを感じ始めた」(「ものぐさ精神分析」解説より)とのことであり、本書の企画につながったわけです。伊丹氏のほか、すでに多くの著名な方々が解説されている本書を「無条件で読んでいただきたい」のが本音ですが、勇を鼓して、筆者なりに岸田理論をご紹介します。

people-08岸田氏はまず、「人間は本能が壊れた動物である」といいます。動物には自然環境の中で、こういう刺激に対してはこう反応するという本能(=行動規範)が備わっていますが、人間はその本能が大部分壊れており、どうしていいかさっぱりわからないのが本来の状態であると。したがって、そのままで生きていけないので、本能に代わる行動規範が必要になってくる。その行動規範の中心になるのが幻想たる自己=自我であると、岸田氏は説明します。ただし、人間がどのように自我をつくるのか、についてはわかっていません。

人間だけが持つ自我は、人間が生きるのに必要不可欠な行動規範ですが、本質的に不安定であることをごまかすため何らかの支えを求めるようになります。その支えとして、やがて文化や価値体系といったものが発展します。ただ価値体系といっても、実は、これが正しいとか、これに価値があるという究極の根拠はどこにもありません。ありもしない価値体系である。そのありもしないものが、時には神であり、真理であり、正義であったり、世間であったりする。それらはすべて、元々ありもしないのだから「幻想」に過ぎないと、岸田氏は断言します。また、すべてが幻想なのだから、自分の「唯幻論」自体も幻想であると。

tahril-neonatalこのように短く要約してしまうと、頭がクラクラしてくるようです。ですからぜひ、じっくりと本篇をご賞味いただきたいと思うわけです。タイトルにある哺育器とは何のことでしょうか。岸田氏は「人間は本質的に未熟児なわけです。したがって、家庭っていうのが大きな哺育器なんですね、一種の・・・」と述べています。そして、家庭も幻想の一つですから、「人間は幻想という哺育器の中で生きている」ということになります。

岸田氏の著作はこのほかにも多数ありますが、ご本人が「自分が言いたいことは一つしかない」というところの岸田理論の骨子は、本書と「ものぐさ精神分析」をお読みいただければ十分理解できると思います。伊丹氏という絶好の聞き手を得た本対談は、「唯幻論」における幻想ということの意味から、自我の構造の分析を経て、終わりのほうでは日本人の精神構造の分析へと進んでいきます。両氏が工夫をこらした本書をご一読のうえ、皆さん自身がそれぞれに自己分析の糧として活かしていただければ、きっと両氏の希望にかなうことでしょう。