「おおきな木」の見事な曖昧さ

今回は、アメリカで1964年に出版され、50年以上も世界各国でロングセラーを続けている絵本の名作、「おおきな木」(The Giving Tree) をご紹介したいと思います。著者はシカゴ生まれのシェル・シルヴァスタイン(Shel Silverstein, 1930-1999)という人です。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、シルヴァスタインは絵本作家としてのみならず、多方面で非凡な才能を発揮しました。

おおきな木

たとえば、1970年にグラミー賞をとったジョニー・キャッシュのヒット曲「スーという名前の少年(A Boy Named Sue)」の作詞を手掛けています。また1984年には、かれ自身が朗読し、歌って叫んだ(recited, sung and shouted)詩集アルバム、「歩道の終るところ (Where the Sidewalk Ends)」でもグラミー賞(ベスト・チルドレン・アルバム)をとりました。なお、同詩集は倉橋由美子さんの美しい訳により、単行本としても出版されています。

At San Quentin [12 inch Analog]Where the Sidewalk Ends歩道の終るところ

 

「おおきな木」は、日本では1976年に本田錦一郎氏が訳出しましたが事情があって絶版となり、その後2010年に読者の要望に応えるかたちで、あすなろ書房から村上春樹氏による新訳版が出版されました。まだ旧訳版(本田訳)も図書館などにはありますので、両者を読み比べてみるのも面白いと思います。原題(The Giving Tree)を「おおきな木」と訳すことはそのまま継承されましたが、本文の訳出においては、この二人の個性がそれぞれ際立っているからです。

考えてみると、絵本の翻訳は簡単そうに見え、これほど難しい仕事もないように思えます。原文は一般に、子ども向けに短くやさしいことばで書かれ、音感やリズム感が意識されており、ときには韻が踏まれています。原文の特徴や味わいを尊重しながら、本来の意図を汲みとって意訳を行ないますが、けして過ぎることのないように慎重な作業が求められます。そこに正解はなく(あるいはいくつもの正解があり)、翻訳者としての技や苦心の違いが結果に表れることは当然といえるでしょう。

翻訳というアウトプットの出来映えについて、読者はときに疑問を抱くこともありますが、それ以上に、ある種の個性を感じさせる「名訳」に出会う喜びを期待しています。そのような意味で「おおきな木」という絵本は、まず原文で読み、かつ本田訳と村上訳という二つの名訳を楽しむことのできる「一粒で3度おいしい」作品といえるのではないでしょうか。また、世の中には翻訳させずに埋もれてしまう名作もおそらくあることを思えば、複数のそれぞれ一流の翻訳を持てた本作は「幸せな作品」であり、ぜひ手にとって楽しんでいただきたいと思います。

ここでお二人の異なる訳例をひとつだけご紹介しおきますと、たとえば、主人公ははじめ少年として登場し、やがて大人に成長していくのですが、原文では一貫して「the boy」と呼ばれています。本田訳では、この少年を「ちびっこ」、「そのこ」、「おとこ」、「よぼよぼの そのおとこ」というふうに表現を変えて(意訳して)いきますが、一方の村上訳では、少年は老人になっても「少年」と原文を忠実に訳しています。どちらをより支持するかは、みなさんしだいです。

さて、ではそろそろ物語の概要をご紹介しましょう。本作の原題(The Giving Tree)を直訳すれば「与える木」です。この擬人化された一本の「与える木」と一人の「少年」が主人公であり、同時に登場者のすべてということになります。両者の生涯にわたる長い交流が、絵本という限られたスペースに凝縮され、淡々と描かれていきます。

はじめ、木と少年は互いに大好きな友だちであり、いつも楽しく遊んでいました。しかし、時が経ち、成長した少年は木を一人ぼっちにして、何か欲しいものがあるときだけ戻ってくるようになります。少年がお金が欲しいと言うと、木は「私の果実を売りなさい」と言って果実を与え、次に少年が家を望むと枝を与え、ボートを望むと幹を与えてしまいます。さらに時が経ち、老いて帰って来た少年が休む場所を望むと、木は、ついに切り株となってしまった自分に腰かけるよう勧めます。木は生涯を通してすべてを少年に与え続け(別の見方では失い続け)、それでいつも幸せ(happy)であった、というあらすじです。

本作は何ごとかを諭す意図をもった「寓話(allegory)」のようにも見えますが、その寓意は何かと考えてみても、はっきりと指摘することが難しい作品です。つまり、言わんとすることがきわめて巧妙に、曖昧にぼかされているため、読み手によってさまざまな読み方や解釈が成り立つようにできているのです。本作最大の特徴は、この見事な曖昧さにあるのではないでしょうか。一般に童話や絵本が広く売られ、読まれるためには内容の曖昧さを敬遠する考え方もありますが、本作の場合、むしろその曖昧さがさいわいして広範な読者を獲得し、いい意味で出版業界の常識を裏切ってきたのではないかと思われます。

さまざまな読み方や解釈とは、たとえば次のようなことです。この物語の主人公(木と少年)ははたして幸せなのか、そうではないのか? 作者は見返りを求めない愛や犠牲を讃えているのか、それに甘える少年を咎めたいのか? この木は母親を意味しているのか、神、自然あるいは他の何ものか、あるいはそれらをすべてひっくるめているのだろうか? 神とすればこれほど寛容であろうか、もっと厳しいのではないだろうか? この少年は典型的な子どもなのか、だめな人間なのか、それとも人間全体がこうだと言いたいのか?

「おおきな木」の見事な曖昧さ その2へつづく。

「おおきな木」の見事な曖昧さ その2

前回より、シェル・シルヴァスタインの絵本の名作「おおきな木」(あすなろ書房)をご紹介しています。前回の記事はこちらです。

「おおきな木」の作者シルヴァスタインはニューヨーク・タイムズ・ブック・レビューのインタビューに対し「これはただ与える者ともらう者という二人の関係である」と述べているそうです。かれの態度には納得がいきます。幅広い解釈のどれかに肩入れすることで、わざわざ読者各層の豊かな想像を壊すようなまねは不必要ですから。かれは子どもたちに(また大人に対しても)現実の世の中にある厳しい部分をとりつくろったり、一方的に道徳的価値観を押し付けたりすることは避け、あるがままの世界について語ろうと努めたのでしょう。

こうしたシルヴァスタインの創作姿勢によって、「おおきな木」という曖昧な物語が生まれました。かれは、現実にはたいてい幸せや悲しみが入り混じっていること、まるっきりいい人や悪い人などと決めつけてはいけないこと、また、世界はこの物語のように曖昧にできていることを、子どもたちにじっくり考えさせようとしています。おかげで子どもたちは、物語をこころの道具として使うことを通して、ゆとりを持って自分自身の考えを練り上げることができるようになり、また、大人も自分の固定観念から引き戻され、子どもたちの視点でもういちど世界を見直すことになるのです。

100万回生きたねこ (講談社の創作絵本)「100万回生きたねこ」の記事の中でも書かせていただきましたが、絵本からメッセージや教訓を読みとるくせは大人に特有のものであり、大人、子どもとも、自由に感じることを尊重すべきです。「おおきな木」が語りかける意味は人によってさまざまであり、そこに本作の真価があります。訳者の村上氏もあとがきで次のように述べています。「シルヴァスタインは決して子供に向けてわかりやすい『お話』を書いているわけではありません。物語は単純だし、やさしい言葉しか使われていませんが、その内容は誰にでも簡単にのみ込めるというものではありません。(中略)あなたがこの物語の中に何を感じるかは、もちろんあなたの自由です」と。

おおきな木さて、この辺で「おおきな木」の、表現としての外見的特徴について触れておきたいと思います。まず絵ですが、黒いペンだけを使って木と少年を描き、それ以外のものはほとんど描き込まずに広い余白を残すという非常にシンプルなもので、若いころから漫画を描いていたシルヴァスタインが最も得意とする描き方です。モノクロームの線画は、日頃カラフルな絵本を見慣れた目には一見もの足りなく感じられるかも知れませんが、装飾的な要素をすっかり取り除くことで、そのシンプルさによって読者に新鮮さやインパクトを与えていると思います。なお、表紙だけは緑と赤で彩色され、クリスマス・カラーを想起させるといった別種の効果をもたらしているようです。

文章もまたシンプルな絵に見合うよう、やさしくわかりやすい言葉づかいで書かれています。この物語の構成としては、すでに見てきたように、木と少年の生涯にわたる長い交流が淡々と描かれているわけですが、そこに作者は、あるいくつかのフレーズを効果的に繰り返し挿入するという手法によって、作品全体にパワフルなリズム感をつくり出し、読み手の目、耳、こころに強い印象を刻み込むことに成功しています。たとえば、次のようフレーズが何度も繰り返されることに、読み手はすぐに気づくでしょう。さすがに、グラミー賞をとる作詞家だけのことはあるようです。

“Come, Boy” (いらっしゃい、ぼうや)
“And the tree was happy.” (それで木はうれしかった/しあわせだった)

「おおきな木」の贈りもの―シェル・シルヴァスタイン (名作を生んだ作家の伝記)「おおきな木」については関連本もいくつか出版されています。そのうちの代表的な二冊をご紹介しておきましょう。一冊目は作者シルヴァスタインの伝記です。「『おおきな木』の贈りもの (Shel Silverstein)」 ― マイケル・グレイ・ボーガン(Michael Gray Baughan)著、水谷阿紀子訳(文渓堂; 2009年刊)という本です。マルチな才能を発揮したシルヴァスタインの人生と創作にまつわるエピソードが興味深く語られています。これをガイドとして「おおきな木」以外の著作やアルバムなど、かれの多彩な作品世界に触れてみるのも面白いでしょう。

もう一冊は、発達心理学の専門家、守屋慶子氏による「子どもとファンタジー 絵本による子どもの『自己』の発見」(新曜社; 1994年刊)という労作です。守屋氏は、ほかでもないこの「おおきな木」を、日本、韓国、イギリス、スウェーデンの7歳から17歳までの子どもたちに読ませ、その感想文を分析することによって、かれらの自己発見過程を捉えていきます。どちらかといえば学術研究的な内容であり専門家向けですが、素材がすでに多くの人に親しまれた一冊の絵本であることから、一般読者にも比較的読みやすいと思います。子どもとファンタジー―絵本による子どもの「自己」の発見 (子どものこころ)

守屋氏は、子どもたちの年齢や国、その他の要素によって「おおきな木」がさまざまに異なった読まれ方をしているという実例や傾向、その理由などをすらすら明かしていきます。まさに「目からウロコ」といった感じです。上のほうでも述べましたが、子どもたちの視点で謙虚に世界を見直してみれば、大人の固定観念などいとも容易に崩れてまう可能性があることを、本書の解説を通してきっと実感されるでしょう。

ここからは、ボーガン氏と守屋氏の両著書を参考にしながら、「おおきな木」が実際にどのように読まれてきたか・読まれているか、その多様な解釈の可能性について、もうすこし詳しく見ていきたいと思います。

「おおきな木」の見事な曖昧さ その3へつづく。

「おおきな木」の見事な曖昧さ その3

前回は、シェル・シルヴァスタインの絵本の名作「おおきな木」(あすなろ書房)をご紹介する2回目でした。その記事はこちらです。

「おおきな木」が実際にどのように読まれてきたか、また読まれているか、この絵本の多様な解釈の可能性について見ていきます。まずとっかかりとして、出版社の宣伝コピーを見てみましょう。こんなふうに謳っています。「幼い男の子が成長し、老人になるまで、温かく見守り続ける一本の木。木は自分の全てを彼に与えてしまいます。それでも木は幸せでした。無償の愛が心にしみる村上春樹訳の世界的名作絵本」(下線は筆者)。

おおきな木「おおきな木」に接した日本人の大人の、圧倒的に多くのみなさんが「惜しみなく与える無償の愛に感動した」という趣旨の感想を寄せています。出版社もそうした多数派といえそうな感想に共鳴しつつ、人気を高め続けていきたいとの意向でしょう。そのこと自体は、まことに素直な対応と言えるかも知れませんが、ただこの絵本が世界で実際にどのように読まれているかという観点に立つと、これこそ理想的な「無償の愛」の表現といった解釈も、じつは数多ある読み方・読まれ方の一つに過ぎないことが判明します。下のほうで徐々に見ていきます。

原著において、擬人化された木は女性であり “She”と呼ばれています。邦訳も言葉づかいによってその設定に従っており、また物語の中では、女性であるとする木の、少年に対する「限りない優しさ」という関係性が明示されていきます。その結果、多くの読者がこの木から「母性」を感じとり、ついで、木が示す献身的行為のもとは「母の子に対する愛情」にほかならないと見てとるのは、たしかに(日本人の感性において)きわめて自然であります。

Photo by Arturo Espinosa – Erich Fromm (2013) / CC BY 2.0

本田錦一郎氏もあとがきで、「愛とは第一に与えることであって、受けることではない」というエーリヒ・フロム(Erich Fromm)の言葉を引用し、「おおきな木」にも通じると書いていますので、それにわが意を得たりと感じた読者も多かったでしょう。大人の一般読者からの感想例を読ませていただくと、「愛、人に尽くす親切というものは無償であって初めて完成されたものだと思う。人というものはこうありたい」とか、「最後まで子どものために献身的な愛に生きようとする」など、出版社が期待するとおりに、感動の声は尽きないようです。

また、後先になってしまいましたが、守屋慶子氏の研究では、日本の子どもたちも8割近くが大人たちと同様にこの木を母親に見立てています。その代表的な感想をご紹介しておきます。

「・・そしてりんごの木は少年が帰ってくるまで長い間まっていた。あのりんごの木が僕には母のように思えた」(中1)
「りんごの木がお母さんで、あの少年が子どもという感じがした。子どもは大きくなるにつれてお母さんから離れていく。お母さんは子どものことならどんなことにもつくす」(中2)

しかしながら、このように木を母親と見、献身的な愛情に深く感じ入る私たちの感性がじつは日本人に特有なもので、必ずしも世界で一般的でないとしたらどうでしょう。なかには「そんなことあるはずない」と違和感を覚える方もいらっしゃるでしょう。ただ申し上げたいのは「無償の愛」自体はもとより、みなさんの読み方がおかしいなどということではもちろんなく、「おおきな木」について、私たち日本人と異なる読み方をする読者が世界には大勢いるという事実、そういう価値観の多様性・多元性に目を向けていただきたい、ということです。

まずは、前出のボーガン氏が紹介する異論を引用してみましょう。「女性解放論者(フェミニスト)や進んだ考えをもつ人は、シルヴアスタインが、この木を女性にしたことを重視している。この木は、『搾取される女性』というテ-マの一つだというのだ。それは、子どもの幸せのために、じぶんの幸せを犠牲にする母親であり、夫のために、やはり自分の幸せを犠牲にする妻であり、愛に目がくらんで、じぷんを利用するだけの男のために、人生をむだにしているのに気づかない女性のことだ」と。いささか極端なようですが、欧米ではこのような見方は珍しくありません。一方、日本の本田氏は「与えることに犠牲を見てはならない」と述べ、こうした議論に取り合わないようすすめています。

次に、守屋氏は、日本では木を母親に見立てる子どもたちが(大人同様に)最も多いとしたうえで、以下のような注目すべき感想例を挙げています。

「りんごの木は優しすぎる。それは少年の願いを自分の体を切ってまで叶えてあげようとしたから」(小6)、
「この木は少年のヒモやと思った。アホな木や」(高2)、
「・・なにもかも取られたのに、幸せだったというのは、少年の役に立てたということで満足していたからだと思った」(中1)、
「・・少年を自分のものにしたいという気持ちがりんごの木にあったに違いない」(高2)、
「・・少年は枝を切ったりりんごを取ったりした。それでもりんごの木は何も言わなかった。一人ぼっちになるのがいやだったからだろう」(中1)、
「・・マザコンの少年と子離れしない親がいるみたいだ」(中2)、等々。

なんともシビアで辛辣な感想に驚かされます。少なくない子どもたちが、木を「優しすぎる」、「アホ/バカ」とか、「少年を自分のものにしたい(というエゴがあった。つまり無償ではない?)」などと、木を否定的に、あるいは否定もしないが肯定もしない評価を述べています。こうした感想は、現実の大人社会にある何らかの認識や価値観を反映していることは明らかです。大人たち、とくにこの木を「無償の愛」を体現する母親の象徴と考えるみなさんにとっては衝撃的かも知れませんが、うえのどの子も、それぞれに一つの読み方をしていると認めざるを得ないのではないでしょうか。

ふたたびボーガン氏によれば、この木を何と見るかに関わらず「子どもにとってよくない(過保護の)手本」と手厳しく判断する大人たちもいるそうです(カッコ内は筆者)。「この意見によると、木はかぎりなく心が広く、男の子の気まぐれをなんでも聞きいれるので、男の子がわがままになってしまったというのだ。ハーバード大学のある有名な教授は、この本を、『自己中心的な世代のためのおとぎ話で、自己愛ナルンシズムの入門書で、搾取の問答書』とまでいっている」と紹介しています。

「おおきな木」の見事な曖昧さ その4へつづく。

「おおきな木」の見事な曖昧さ その4

前回は、シルヴァスタインの絵本の名作「おおきな木」の3回目として、日本人の大人がこの木を「無償の愛」を体現する母親に見立てる、という傾向について考えてみました。その記事はこちらです。

おおきな木さて、守屋慶子氏の研究において、この木を「母(または父)親」として見る子どもたちは日本で80%近くに上りますが、ほかの3ヵ国でも20~40数%とそれなりの比率です。各国のサンプル数が分からず厳密なことは言えませんが、ある仮定に基けば(以下同様)4ヵ国全体で45%ほどになります。次いで「友人」や「自然」と見る率が意外に多く、各々20~25%程度あります。”意外に”と思ってしまうのは、筆者自身も日本人的感覚から逃れることが困難という証拠でしょう。この木を「神」と見る率は、逆に意外と少なく、残りの10%弱となっています。これらの読み方について、もうすこし詳しく見ていきたいと思います。

まず、この木を「友人」と見る子どもたちの感想をご紹介しますが、その前にやや心配なことを一点指摘しておかねばなりません。それは、このグループに日本の子どもたちがほとんど含まれていないことです。つまり、日本の子どもたちには、少年を献身的に助けるイメージとして「友人」は見えず(また「父親」さえほとんど見えず)、ただ「母親」だけがそのイメージを担っているという事実があることです。守屋氏もこの点に着目し、もしかすると「日本の社会は、子どもにとって不幸で淋しい社会といえるかもしれない」と述べています。(この傾向は韓国もやや似ているようです)

「・・・それは友情関係、与える・もらう関係についての物語でもある。だけど一方は与えるだけ、もう一方はもらうだけ。このような関係はとても不均衡に思える。でも、ある意味では完壁な関係だ」(英国、16歳)、
「もっているものすべてを与え、自分自身のことを考える前に他人のことを考えるということを取り上げたいい物語だ」(英国、13歳)、
「もっているものすべてを友人に与えることで人は幸せになることができるということを私は学んだ」(英国、13歳)

日本人の子どもたちは、上記の英国の子らのように木を「友人」と見る感想をまったく述べていない。わが国でもしも、ほかの国々と比べて友情という観念や道徳的価値観が育ちにくいとすれば、それは一つの社会的欠陥につながりかねない問題であり、教育上の大きな課題と捉える必要があるかも知れません。そこまで大げさに考えなくても・・・というご意見もあるでしょうが、念のために、教育に携わる方々の詳しい検証や対応が望まれるところであると、筆者はそのように感じました。

次に、この木を「自然」と見る子どもたちの感想を見てみましょう。この木は、擬人化されていようとも植物であることに変わりなく、すぐさま森や林へと連想をつなげることは、文字通り自然な考え方であると思われます。さらに「人間すべてが、この少年のように無自覚に自然環境を破壊している」などと、子どもたちが発想を飛躍させたとしても、そこに「自然を尊重する」という素直な感性、あるいは現代人としての素養(健全な科学精神)のめばえを見てとるならば、これ幸いといえるのではないでしょうか。

「たいへん現実的な話だとおもった。というのは、このごろ人聞はこのようなもので、ますます欲しがるだけになっている。そして自然や動物はそのことに対してなにひとつもんくをいうことができない」(スウェーデン、14歳)
「年をとるにつれて、人は、自然の破壊的利用は人間を救けるものではないということに気づくということをこの物語は示している」(英国、16歳)
「りんごの木は自然で少年は人間。自然は人間より長〈生き、生きている間人間を助ける。最後に人聞が辿りつくところは自然。人間はわがままで勝手で自分のことしか考えないのに、自然はそんな人間でも大きく優しく包んでくれる」(日本、中2)

次にようやく、この木を「神」と見る見方をご紹介できます。ボーガン氏は、「キリスト教の聖職者の中には、じぶんをかえりみず男の子に深い愛情をそそぎ、喜んでじぶんを犠牲にし、なによりかぎりなく深い許しの心をもつ木を、イエス・キリストの象徴だと考える人たちがいる」と指摘しています。作者のシルヴアスタイン自身は名前から判断するとユダヤ系のようであり、あるときキリスト教に転向したとされていますが、「おおきな木」に何らかの宗教色が盛り込まれているという根拠は、少なくとも作者周辺からはまったく聞こえて来ないようです。

守屋氏の研究で、木をキリスト教の神に重ね見るのは、英国や韓国の一部の子どもたちです。いずれの国の場合も、子どもたちは「自分の体を切り刻んでまで与える」限りなく寛容な人格的存在としての「神」というようにこの木を捉えています。

「木は少年を幸せにするためならあらゆるものを与える気でいた。少年は木に関心を失ったが、助けを求めるときには木のところに戻ってくるのだった。それはちょうど神のもとを去り、そして救いを求めに再び戻ってくる人のようである」(英国、14歳)、
「木は神を、そして少年は人間をそれぞれ象徴しているといえる。(中略)神は木が少年を愛したように自己を捨てて人々を愛する」(英国、17歳)、
「あの木は神かもしれない。いつもわれわれを待ち、すべてを与えわれわれを愛している。一人子イエスをわれわれのために死なせたように」(韓国、16歳)。

「おおきな木」の見事な曖昧さ その5へつづく。

「おおきな木」の見事な曖昧さ その5

前回は、シルヴァスタインの絵本の名作「おおきな木」の4回目として、この木を「母親」でなく「友人」、「自然」や「神」と見立てる読み方をご紹介しました。その記事はこちらです。

おおきな木ここまで「おおきな木」のもつ曖昧さという特徴について、また、そこから生じる多様な読み方や解釈について、一方の主人公”与える側”である擬人化された「木」にフォーカスして述べてきました。今回は、片手落ちとならないように、もう一方の主人公”与えられる側”の「少年」に視線を向けた子らの感想を、守屋氏の研究からご紹介しておきたいと思います。併せて、作者シェル・シルヴァスタインに興味を持たれた方のために「おおきな木」以外の代表作をざっとご紹介します。

さて、今回に限って結論めいたことを先に述べてしまいます。この”与えられる側”の少年に目を向けるなら誰でも、多かれ少なかれ少年を批判したくなり、次に自分にも少年と似た面があると否応なく内省するものの、結局のところ、似ているのは自分だけではないと正当化するでしょう。こうした心の動きの一部を切り取るか、どこかに重点をおくことで、さまざまな感想が生まれることになります。この少年は典型的な子どもなのか、だめな人間なのか、それとも人間全体がこうだと言いたいのか? これらのすべてが当てはまると言って間違いではないでしょう。子どもたちの感想がよく表しています。

「少年は自分勝手でわがままでなんという人間だ」(日本、小6)
「この物語から、私自身の胸にチクリと針を刺されたような感じを受ける。自分が困っているときだけ、ただ助けてもらうために人を頼る・・・何か自分でほんとうに情けなくなる。日頃の生活でもやはり経験することだ」(日本、高3)
「この物語を聞いて私と他の人々、家族や友人との関係について考えきせられた。そしていくらか後ろめたきを感じる。」(英国、16歳)
「あの少年はふつうの生き方だと思った。私も今お金が欲しい。・・・自分もあの少年のように、思いやり、木に対する心が無くなってしまうのだろうか」(日本、中2)
「なんだか自分たちの世界のことをみているようです。今の人間は自分中心の考えでいるし、他の人のことはどうでもいいと思っています。」(日本、中2)

守屋氏は子どもたちの感想から、「おおきな木」という一冊の絵本が「子どもたちの感情を大きくゆさぶり、認識活動や想像活動を刺激したことが読みとれる。(中略)そして思わぬ『自己』との出会い、感想にはその変化の様子が驚くほど鮮やかに、そしてダイナミックに描きだされている」と指摘し、発達心理学の専門家として、子どもたちが自己を認識し、さらに「人間の一人としての自己」を認識する過程をわかりやすくスケッチしています。くわしい中身については、ぜひ守屋氏の著作でご確認下さい。子どもとファンタジー―絵本による子どもの「自己」の発見 (子どものこころ)

シルヴァスタインの「おおきな木」は、その見事な曖昧さゆえにさまざまな読み方ができます。そのことによって大人・子どもを問わず、読み手に対してリトマス試験紙のような役割を果たす”恐るべき絵本”であることに感銘を受け、長々とご紹介してきました。ここまで読み通していただき、感謝申し上げます。最後に、シルヴァスタインのそのほかの主な作品をご紹介します。

新装 ぼくを探しに「ぼくを探しに(The Missing Piece)」 – 倉橋由美子訳(講談社; 1977年刊)は、外見的には童話、絵本、マンガ・・のどれかのジャンルと見えますが、書店では大人向けの文芸作品コーナーに置かれるべき作品でしょう。絵は「おおきな木」よりさらにシンプル、と言うより無造作に描かれています。大人の固定観念で説明すれば、フリーハンドの一本の横線で世界を描き、そこをパックマンのような球体の宇宙生物、あるいは丸い石ころ(rolling stone)のような、精神年齢は少年から青年期を感じさせる主人公がころがっていき、いろいろな経験をするという話です。大人はこのすばらしく未完成な作品を、自分の好みの読み方で完成することができます(そこにタイトルの真意があると思います)。70年代中頃の時代背景を映すとともに、一つの普遍性を表わそうと試みて成功した作品です。

続ぼくを探しに ビッグ・オーとの出会い「続ぼくを探しに ビッグ・オーとの出会い(The Missing Piece Meets the Big O)」 – 倉橋由美子訳(講談社; 1982年刊)は上記の続編です。せっかく抒情的な美しいラストで終わったので、つづきはないだろうと思った読者も多かったはずなのですが(筆者もそうでした)、いつまでも旅を終わらせたくないと思う大人がいることも事実で、そういう方々向けの続編です。シルヴァスタインのサービス精神が発揮されたと思えば良いでしょう。

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冒頭でもすこし触れた「歩道の終るところ (Where the Sidewalk Ends)」 は、たくさんの楽しい挿絵が入った全125篇の詩集です(講談社; 1977年刊)。シルヴァスタインの創作の力量がいかんなく発揮された作品であり、できれば英語の原詩とともに、倉橋由美子氏の美しい訳を堪能していただくのがベストの楽しみ方と思います。なお、タイトルは収録された詩の一篇からとられていますが、その詩題はもともと1950年の同名映画(オットー・プレミンジャー監督によるフィルム・ノワールの傑作と言われる作品)から得られたと筆者は想像しています。また、すでにご紹介したように、1984年にはシルヴァスタイン自身が本詩集のCDアルバムを発表し、グラミー賞(ベスト・チルドレン・アルバム)を獲得しました。

Inside Folk SongUnicornシルヴァスタインは、詩や絵本で成功する以前のことですが、1959年にシンガーソングライターとしてデビューし、1962年には「Inside Folk Songs」というアルバムを発表しています。その中に、子どもたちにも理解しやすい「ユニコーン(一角獣;The Unicorn)」という曲を弾き語りの自演で収録しています。この曲はのちにカナダのグループ、アイリッシュ・ローバーズ(The Irish Rovers)が同名アルバムに収めてヒットさせました。

シルヴァスタインは音楽分野において、自演ではほとんど評価されませんでしたが、のちにロック、カントリーの作詞を中心に多くのヒット曲を生み出し、殿堂入りを果たしています。シルヴァスタインが歌を提供したミュージシャンとしては、冒頭で紹介したジョニー・キャッシュのほか、70年代に活躍したロック・グループ Dr. Hook(”The Cover of ‘Rolling Stone'”, “Sylvia’s Mother”など)、カントリーのTompall Glaser(”Put Another Log on the Fire”など)やBobby Bare(”The Winner”, “Tequila Sheila”など)がいます。ここでは数多くの楽曲からとくに、複数の女性シンガーがカバーした「銀貨の女王 (Queen of the Silver Dollar)」という曲を付け加えておきます。歌い手は伸びやかな声質のエミルー・ハリス(Emmylou Harris)、収録アルバムは1975年の”Pieces of the Sky”です。

Greatest HooksWanted! the Outlaws

 

 

16 Biggest HitsPieces of the Sky

 

 

 

 

 

この記事シリーズは、ここで終わります。