「分断社会を終わらせる」には その6

前回は、井手英策教授の、古市将人・宮﨑雅人両氏との共著で、「分断社会を終わらせる ― 『だれもが受益者』という財政戦略」(筑摩選書)から、「教育の充実」の重要性などについて紹介しました(この本の4回目)。その記事はこちらです。

井手氏らは、社会全体が貧しくなろうとも、みんなが人間らしく生活ができるように、教育や医療、育児・保育、養老・介護などの分野において、誰にとっても必要なものを保障する仕組みをつくり、「だれもが受益者かつ負担者」になる生活保障を制度化すべきと主張します。この部分だけをとると、世界のどの社会民主主義政党が掲げる政策とも、基本的に変わらないように聞こえますが、どこか違うのでしょうか。

Photo by World Economic Forum, Davos 2008 / CC BY SA2.0
Photo by World Economic Forum, Davos 2008 / CC BY SA2.0

筆者の見立てでは、井手氏らの主張は、かつてイギリス労働党のブレア政権(1997-2007年)が提唱した「第3の道(Third Way)」を想起させます。第3の道とは一般に、従来の2つの対立する思想や諸政策の「いいとこどり」をして、対立を超えようとする考え方です。ブレア政権は、伝統的な社会民主主義による結果の平等ではなく、教育の充実などの機会の平等を重視するとともに、サッチャー流の新自由主義的な路線を部分的に組み入れました。これらは欧州諸国の中道左派政権に影響を与え、米国でレーガノミクス後に採られたクリントン政権の路線とも共通点があります。

分断社会を終わらせる:「だれもが受益者」という財政戦略 (筑摩選書)ただ、ブレア政権は確かに福祉・教育予算を拡充ましたが、十分に成功したとは評価されていません。格差の是正についても思い描いたような成果を得られず、また、保守党路線を継承した部分で支持母体である労組の離反を招き、最後にはイラク戦争での米国追随が命取りになったことは周知のとおりです。また、北欧など高負担・高福祉の確立した国々は別として、1990年代に誕生した中道左派政権においても概して、その思想・政策が定着するには至りませんでした。

このようにして、2000年代に入ると「第3の道」ないし中道左派は後退し、レーガン、サッチャー以来の新自由主義的な思想・政策がふたたび世界的に抬頭することになり、日本ではご承知のとおり、3次にわたる小泉政権となります。そして、世界金融危機以降の世界的な経済不況、グローバリゼーションによる格差拡大等の問題が深刻化し、当記事のシリーズでとりあげているところの、わが国における現時点の問題、「分断社会」へとつながってくるわけです。

さて、今年の米国大統領選では、民主党のバーニー・サンダース候補が過激とも思える社会主義的政策を提唱し、途中まで驚くべき支持を獲得するありさまを目の当たりにしました。いま「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しく」という状況を世界にもたらした元凶は新自由主義だとの批判があります。そうした不公平の主たる原因が、新自由主義の欠陥によるものかどうかは筆者の理解を超えていますが、世界的に吹き始めた新自由主義への逆風は、社会民主主義的な考え方への追い風を意味します。

people-41ここで、問い掛けのつづきに戻ります。井手氏らの考えが時代の追い風を受けているとしても、かつての「第3の道」のように失敗する可能性はないのでしょうか。また、日本において、時の政府が井手氏らと共にこれを進める場合、「第3の道」とどこが違ってくるのでしょうか。それらの問いに対して、筆者にもはっきり言えることが一つあります。日本は、過去に「第3の道」がたどった歴史的経験を検証し、良かった点やまずかった点などを踏まえ、日本に適用するための修正や取捨選択が可能です。その点が明らかにブレア政権よりは有利といえるでしょう。

ただ、日本には、国民福祉に対するビジョン(専門的には福祉国家論、あるいは福祉レジーム論と呼ばれる概念)について、固有の条件や課題があります。たとえば、日本人は伝統的に「勤労」という精神や社会的価値観を大事にしてきました。また、従来の日本型福祉といわれるものは、「自助・共助・公助の役割分担」といった曖昧なことばで説明されてきました。これらについては本題と少し離れますので、いまは詳述を避けますが、日本型福祉は学術的には、北欧型の「社会民主主義的福祉」と明らかに異なるものであり、米英の「自由主義的福祉」と大陸欧州の「保守主義的福祉」とをミックスした発展途上モデルと言われています。

いずれにせよ、井手氏らは「第3の道」を上手に経由しながら、従来の日本型福祉から最も遠いところにある北欧型の「社会民主主義的福祉」にできるだけ近づきたい、そのようなビジョンを目指していると言えましょう。前々回くらいに、井手氏らの思想・政策が、近代以来の「この国のかたち」を変えていくことを意味すると言ったのは、まさにこのことです。ただし、ここに述べていることは筆者の勝手な見立てであって、井手氏自身が国民の向かうべき到達点(ゴール)として、まだそれほど明確に表現しているわけではありません。

landscape-distant-alpes井手氏らの視点はあくまで足下の、深刻な状態に陥っているいまの分断社会・日本にあるのですが、ちょっと頭を上げて遠くを眺めてみると、はるか先にアルプス山脈のような北欧型の福祉ビジョンが輝いて見える。筆者はそのようなイメージだと思っています。そして日本国民は、北欧型福祉を知識として持っていても、かつて一度も自国のビジョン候補として、また遠景としてさえ、眺めた(認識した)ことがなかった。それゆえに、井手氏らがそれをいま、見せてくれようとしていると思うのです。できるだけ多くの人に、まずはこの景色を共有してもらうことが大切だと思います。

つぎは、当記事シリーズの最後となりそうですが、井手氏らが提唱する政策について今後の進め方などを少し考えてみます。また、国民の気にするモラルハザード的な懸念ほかについて触れます。

「分断社会を終わらせる」には その7 につづく。

「分断社会を終わらせる」には その7

前回は、井手英策教授の、古市将人・宮﨑雅人両氏との共著で、「分断社会を終わらせる ― 『だれもが受益者』という財政戦略」(筑摩選書)をもとに、日本型福祉の新たなビジョンについて考えてみました(この本の5回目)。その記事はこちらです。

分断社会を終わらせる:「だれもが受益者」という財政戦略 (筑摩選書)いまにも社会を壊すかも知れない深刻な「分断」を終わらせるには、必要原理に応じて「だれもが受益者」となるように再分配すればよく、それについて国民的合意を形成できれば、増税を含む「だれもが負担者」という財源論を合わせて、制度設計できるようになります。そして、この政策は結果的に(程度は別として)北欧型福祉に近づけることを意味します。また同時に、新自由主義と親和性の強い「小さな政府」から社会民主主義的な「大きな政府」への転換とまで言わぬにせよ、少なくとも日本型の「第3の道」を目指すという意味を持つ、と筆者は考えます。

Stockholm, Sweden
Stockholm, Sweden

ここまではご理解いただけたのではないかと思います。ただ、現時点における井手氏らの立ち位置は、最初に「分断社会」の深刻さを強く訴え、その処方箋の一つを示すところまでの啓蒙段階にあるようです。しかし、日本に残された時間はあまり多くありませんので、なるべくなら次の総選挙に焦点を合わせるくらいのスピードで、国民的議論の沸騰を期待したいと筆者は考えます。井手氏らの掲げる「分断社会を終わらせる」というテーマは、国民にとって、それくらい緊急性と重みのある命題であると言っていいのではないでしょうか。「やるなら今でしょう」と。

ただし、のちに与野党をまたぐ国民的議論に育てていくためには、総選挙で二項対立的な争点化によって「野党の一(いち)主張」というレッテルを貼られないよう、大事にしていただきたいところです。たとえば、当記事シリーズの冒頭で紹介した前原氏にどこまでの計画があったのかは分かりませんが、着眼点はすごく良かったと思いますので、引きつづき、旗振り役を務めていただきたいと思います。野党の専売特許にするべきではなく、あくまでこの政策の実現に向けた与野党協議に発展させてほしいと、そのように感じます。

people-39「分断社会」是正論のオーナーである井手氏らにも、同じことを申し上げたい。皆さんの主張がどれだけ正論であっても、日本の政治風土やここ当分の情勢を見わたすならば、最初のアプローチは左方からでもいいですが、ぜひ日本型の「第3の道」、民主主義的な王道に至る道を目指してほしいと思います。そうしてこそ、「分断」の治癒が可能になると考えるからです。具体的には、与野党双方に向けて発信しつづけること、できれば政党を横断した若手政治家の政策勉強会などを通じて、「分断社会」是正論の浸透をはかってほしいと思います。

さて、すこしちがう話題に移ります。現在、所得制限などにより対象を絞り込んで実施している公的サービスを「だれもが受益者」となるように思いきって拡充していくとなると、「自分は何も努力せずとも、そのようなサービスを享受できる」とかん違いする人は必ず現れます。そうした現象に対して、日本的なモラルハザード(「勤労」などの社会的価値観の棄損)や社会の退嬰を招くのではないかと、懸念を抱く人も多いと思われます。また、かつて破綻した共産主義・社会主義国家などを連想し、社会主義的な思想・政策を体質的に受けつけない人もいるかも知れません。

上記のような懸念や見解を持つ人々のもともとの発想は、ざっくり言うと、日本型福祉における「自助・共助・公助」モデルを使うなら、「公助」はリスクヘッジを含めた社会コストが高くつくので、「自助」(≒自己責任)の比率を最も高く設定しておくのが安全だ、というものです。他方、井手氏らの考え方は、まさにその「自助」への偏重を見直し、「公助」を増やそうとしているわけですから、これは、左右ではじめから綱引きをしているような話、あるいは半永久的に決着を見ない論争かも知れません。

education-01「自助」重視派の人々からは、「公助」には多かれ少なかれ、モラルハザード的リスクが内在するといった指摘が持ち出されますが、それに対し井手氏らは、まさしく「正論」という性格の反論を用意しています。すなわち、ここでも教育が万能の武器となります。前回の記事で、井手氏らは「教育の充実」こそ成長戦略=成長への投資にほかならないとしたわけですが、「教育の充実」によって、社会をモラルハザードに陥らせず、国民のモラルを高めていくこともできます。それこそまさに教育の担うべき課題である、と説明します。

井手氏自身も大学で教鞭をとられていますので、その教育論には普通の文化人よりも説得力が備わっていると感じます。井手氏は、子どもや若者に対する教育の質をいかに高めるかが決定的に重要であり、そのためには、これまで以上に教育機関の改革、新たなカリキュラムや職員の研修プログラムなどが必要になるとしています。また、走りながら、そうした教育改革の成果を記録・検証していくことや、教育を新たな産業、社会の変化に適応させていくことなどの必要性も指摘しています。

井手氏は2016年6月、若い人たち向けに、「18歳からの格差論 18歳からの格差論 – 日本に本当に必要なもの」という冊子もつくっています。筆者も早速手にとってみましたが、井手氏の考え方の基本部分があらかた示されていますので、大人にも面白いと思いました。筆者はとくに、中学生にも理解できそうな、格差是正のロジックが気に入りました。井手氏は高福祉・高負担の北欧諸国では、格差を一番是正していると指摘します。かりにみんなから同率で徴収し、みんなに同額で一律再配分するという単純な方法を実行すると、それによって金持ちにも一部戻りますが、格差は縮小でき、貧しい人はより良く生きていけるという説明になっています。

分断社会ニッポン (朝日新書)また、ご参考までに、2016年9月には佐藤優氏・前原誠司氏とのサロン的な対話形式で、「分断社会ニッポン」(朝日新書)も刊行されています。佐藤氏による独特のつっこみや解釈は定評のあるところですので、お時間に余裕のある方はこちらの本もどうぞ。

井手英策教授の著書を中心に紹介してきました ”「分断社会を終わらせる」には” と題する記事シリーズは、ここでいったん区切りとさせていただきます。

「子どもの貧困」に向き合う

今回は、ここ10年で、筆者がもっとも衝撃を受けた本をご紹介します。阿部 彩 著、「子どもの貧困 ― 日本の不公平を考える」(岩波新書)です。上梓された2008年は、日本社会で「子どもの貧困」が発見された年となりました。その後、この問題に関して、政治や社会に小さくない変化が生み出されていきますが、本書がそのことに最も貢献したと評価する方は多いでしょう。もちろん筆者もそのひとりです。

let-a-child-bench本書は、日本の子どもの貧困率が先進国の中で高い位置となっているばかりか、近年、悪化しつつあることをずばりと指摘しました。先進国で現在用いられている貧困の指標は「相対的貧困」と呼ばれるものです。日本の子どもの相対的貧困率は90年代から上昇し続け、1995年に12.7%、2004年に14.7%となり(本書執筆時点のデータ)、2012年にはさらに16.3%(6人に1人が貧困。厚生労働省・国民生活基礎調査)と上昇しているのです。阿部氏がこうしたデータを、本書で初めて人々に指し示し、ねらい通りの反応を引き起こしたわけです。

それまで、誰もが「日本社会に貧困問題はない」と考えてきました。「貧困」という言葉から、多くの人が想起するのは「食べものがない」といった、日本の戦争直後や発展途上国の「絶対的貧困」のイメージでした。「日本は成功し、先進国のリーダーになった」のであり、「現代の日本で子どもたちが貧困であるはずはない」という思い込みがあったため、「そこにある貧困」が見えておらず、社会的問題として存在しなかった。そこに阿部氏が、大きな発見と気づきをもたらしました。

(貧困率の算出方法は省きますが)相対的貧困とは、人がその社会で生活するために通常得ているものが得られない・できることができない、という状況を指します。たとえば、経済的理由で他の子どもと交遊関係を保つことができない、同じ教育を受けられないとか、同じ土俵で就職活動ができないといった問題が高い確率で起こります。「家は貧しかったが、頑張って奨学金で大学を出た」という例があるとしても、機会の公平を証明しているわけではありません。

子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)また、阿部氏はたとえば、修学旅行に数万円の費用がかかるという状況を指摘します。それだけ見れば贅沢品のようですが、学校では修学旅行へ行くことを前提にカリキュラムが組まれており、もしクラスの中で一人だけ、お金が出せないために修学旅行に行けないとなれば、その子の疎外感や自分が不幸だと思う感情はいかばかりでしょうか(想像してみて下さい)。修学旅行は、すべての子どもにとって必要な機会といえます。

皆さんは、高校進学について、教育費が工面できない場合は諦めるのも仕方がないとお考えでしょうか。今の日本社会では、高校進学率は1974年以来、90%を超えて高原状態にありますので、国民目線でもけして贅沢ということはなく、必要最低限の教育というべきでしょう。したがって、修学旅行のケースと同様に、経済的理由で高校進学の機会が失われている子どもたちは「貧困」であると考えねばなりません。これが、相対的貧困の考え方です。

阿部氏は、「子どもの貧困」はごく一部の特殊なケースではなく、この日本の、すべての人の身近にある問題としています。たとえば学校現場では、不登校、学力の低下、集金が滞る、空腹による無気力、暴力的な態度など、さまざまな問題が起きていますが、教員にはそれらの背景に「貧困」があるかもしれないと想像することが必要と指摘します。

参観日にまったく来られない家庭があるとすると、参観日だけでなく日常的にも、子どもに手をかける時間がなく、勉強も見てあげられず学力が落ちたり、満足な食事も与えられず給食が栄養の命づなになっているのかもしれません。健康についても、自己負担分が払えないとか、病院に連れて行く時間がないといったケースもあり得ます。そこに「貧困」の可能性があることを、つねに考えてほしいと訴えます。

children-002人口が減少していく日本で、子どもたちがいかに大切な宝であるか。これほど明白なことはないにも拘わらず、子どもの6人に1人が貧困状態にあるのです。阿部氏は、そのことの深刻さについて、次のように訴えています。

子どもが自己肯定感を持つためには、乳幼児期に特別な大人と一対一の関係を持つことが大切です。いわゆる愛情を知らずに育つということが、人格形成に多大な影響を及ぼすわけです。子どもは、自分に愛情を注いでくれる人がいることで安心感を得て、自分の存在の肯定につながります。少し大きくなると、たとえば積み木のおもちゃで何かを作り上げた時にほめられる経験をすると、達成感を得て、チャレンジ精神ややり遂げる意欲を身に付けていきます。

しかし、貧困家庭に育つ子は親が生活に追われていて、子どもとゆったり接する余裕がないため、このような経験がほとんどないままに育ってしまう傾向があります。その結果、そういう子と恵まれた環境で育てられた子では、小学校の入学時点で差がついています。自己肯定感が低く、学力も低いまま「どうせ自分は頭が悪いから」などと自己否定してしまいます。不利な立場で頑張る子もいますが、教育環境が整っていない上に、進学できるかどうかわからないなどの不安な要素があれば、「やっても仕方がない」と希望や学習意欲を失っていきます。

学力格差については、したがって、できるだけ早い段階から丁寧に対応することが望まれるわけです。そうした手当てを受けなかった子どもたちも中学校は卒業できますが、いざ高校進学となったときに「これ以上勉強なんてしたくない」となるケースが多々あるとのことです。その子自身の将来の選択肢を増やすためにも、またその先の貧困の連鎖を断ち切るためにも、最低限、子どもたちの高校進学を実現させたいと阿部氏は訴えます。

「子どもの貧困」に向き合う その2 につづく。

「子どもの貧困」に向き合う その2

前回から阿部彩著、「子どもの貧困 ― 日本の不公平を考える」をご紹介しています。前の記事はこちらです。今回はそのつづき(2回目)として、続編の「子どもの貧困Ⅱ ― 解決策を考える」(岩波新書)の内容を加味しつつご紹介します。

children-003「子どもの貧困」が将来の社会に、いかに甚大な影響を及ぼすかという警鐘もつよく鳴らされるようになりました。15%もの子どもたちが、本来活かせるはずの可能性を削がれてしまえば、一国の経済活動に影響が出ることは必然であり、とくに労働人口の減少が見込まれるわが国においては、許されない損失となるはずです。

近年、わが国でこうした貧困化が進んだ最大の理由はなんでしょうか。ここでは詳しい分析は横に置きますが、起こっている社会現象をひとことで言えば、全体的に子どもを持つ世帯の経済状況が悪くなってきたことです。その中でも、阿部氏がもっとも注目すべきと訴えるのは母子世帯の増加です。母子・父子世帯を合わせた貧困率は50%以上、母子世帯だけの貧困率は60%以上とされ、間違いなく日本でいちばん苦しんでいるのであり、その子どもたちは危機的な状況に置かれていると指摘します。

子どもの貧困II――解決策を考える (岩波新書)また、このことを放置すれば、あるいは手を打ったとしても効果を上げることができなければ、悲惨さがより増していきます。親が貧困であれば、その子が大人になっても貧困から抜け出せないこと、貧困がその子の、そのまた子どもへと世代を超えて連鎖することがさまざまなデータから明らかになっています。大人の貧困も突き詰めると、その人たちが子どもだったときの生育状況や暮らし向きに関わってきます。貧困の連鎖といわれる問題です。

こうした深刻な「貧困」に対する政府の基本政策として、まずは低所得層への所得の再分配ということが期待されますが、これに関して、本書の指摘がたいへんな物議を醸すことになりました。阿部氏が確かめたデータによると、日本では、再分配前(税・社会保険料の支払や年金・生活保護などあらゆる現金給付を受け取る前)と、再分配後(その後)で比べたときに、「子どもの貧困率」が低くならず、逆に高くなるという「逆転現象」が起こっていたのです。

つまり、政府がそれまで行ってきた所得再分配政策は、「子どもの貧困」に関しては不十分どころか完全に誤っていたわけす。阿部氏は、この状況をピンポイントで是正し、貧困削減に対しもっとも効果の期待できる対策として、児童手当や児童扶養手当など「現金給付の見直し」を強く求めますが、政府は「子どもの貧困」を認めたものの、対策を具体化する段階で「手当はバラマキ」として猛烈な反対を示しました。

child-at-parkそもそも政府は以前から、基本的に貧困問題を認めて来なかったのです。そのわけは貧困が見えておらず、見ることを意識的に避けてきたとも言えるでしょう。政府は、かりに貧困対策が必要だとしても総合的経済政策の中でまかなえ、経済の状況が上向けば自ずと解消する問題と捉えてきたふしがあります。また、現金給付については、従来からバラマキと批判してきた野党の政策と一致しかねないため、面子もあって忌避してきたと筆者は見ています。

いちばん貧困率の高い母子世帯にまず対策を講じるべきだとし、そのためには直接的な「貧困削減そのものを目的とした具体的政策」こそ有効という阿部氏の主張は難航しました。阿部氏は、本書の刊行から5年余りを経た2014年に、続編の「子どもの貧困Ⅱ」を上梓しますが、その5年間について、「期待と失望と再度の期待というような目まぐるしい展開の連続」だったと述べています。

世論の後押しもあって、2013年に子どもの貧困対策法が成立したことで、阿部氏の「再度の期待」は広がりました。しかし、母子世帯の窮状は続いています。与党の一部などにはまだ「母子世帯になることに問題がある」といった考えや、母子世帯に手厚い政策をとれば「離婚がもっと増えるだろう」といった、家族についての伝統的価値観に根差した懸念があります。それに対して、これから先も児童扶養手当など、現金給付のさらなる拡充を求めていくことが阿部氏の基本的立場です。

mother-and-babyただ政策の全般的方向性としては、これまでもそうですが今後も、現金給付を制限し、職業訓練などの雇用、就労支援を重視しているようです。確かにそれらも長期的には必要なことですが、いまの日本の母子家庭にフィットしているようには見えません。日本ではシングルマザーの就業率は80.6%と、米国の74%、英国の56%などと比べて非常に高い現状があります。つまり多くのシングルマザーにとって、失業が問題なのではなく、働きながら「ワーキングプア」の状態に置かれていることこそが問題です。この点について、ケネディ駐日アメリカ大使は、「日本は仕事をすることが貧困率を下げることにならない唯一の国」と評しています。

また、現金給付は親への支給であるため使い道を限定できないが、教育や保育サービスなどの現物給付は直接子供に提供されるためより優れている、といった「現金給付vs現物給付」の論争もあります。この点について阿部氏は、貧困にいたるルートが多様であることを踏まえ、「おカネでしか解決できない」場合があることを示し、金銭と現物(サービス)の両輪が必要と述べています。

阿部 彩 氏の2冊は、「子どもの貧困」に関心を持ってすでに何かに取り組んでいる方にも、またそうでない方にも、できればすべての日本人に目を通していただきたい本です。氏の次の著作にも大いに期待したいところです。

筆者はこれまで、日本の美しい自然を「豊か」と感じることはあっても、日本という国家や国民を「豊か」と思ったことがほとんどなく、実は日本を物心ともに「貧しい国」と思ってきました。そのような感覚が、阿部氏の著作によって一部証明されたような気分になりました。しかし、「子どもの貧困」を知り、改善のチャンスを与えられたわれわれは幸運であり、実際に改善できるならば、いくらか「豊かな国」と思えるようになるでしょう。

「子どもの貧困」については、ここでいったん区切らせていただきます。


「働き方改革」とはなにか

2016年9月26日、安倍総理大臣は国会演説のなかで、「一億総活躍の大きなカギは働き方改革だ。働く人の立場に立った改革、意欲ある皆さんに多様なチャンスを生み出す、労働制度の大胆な改革を進める」とあらためて述べ、長時間労働の是正や「同一労働同一賃金」の実現などを含む、実行計画のとりまとめが始まりました。

people-01この「働き方改革」について、いまのところ、国民や各界の反応はパッとしません。そのこころとして、単なるアドバルーンではないか、使われている言葉の意味がよく分からない、優先度の高いテーマとして考えたことがない、あるいは、自分の仕事に関係することは分かるが実現可能性に疑問がある、などといった声が聞こえてくるような気がします。

筆者は3年ほど前に長くつとめた会社を定年退職し、いまは自称「自由業」です。ですから、「働き方改革」にはまったく関心がないと言っても、叱られる心配のない立場です。けれども、もしこの問題がほんとうに解決の道筋をたどることができれば、この国の経済の活性化はもとより、社会保障や国民の健康、少子化問題にまで好循環をもたらす可能性があると考えております。

今回もやっぱりアドバルーンに終わるかも知れないという心配も少しあるのですが、そうなって欲しくないという希望をより強く持っています。アドバルーンに終わらせないためには、安倍総理や内閣府に本気を貫いてほしいと意見を伝える方法もありますが、それと同時に、改革の受益者であり、かつ推進主体者にもなり得る多くの皆さまに、もっと「働き方改革」の真価に気づいていただくことが必要と思われます。

ただ、そのように大言壮語しましても、このちっぽけはサイトは「本」の紹介しかできません。そこで、とくに自分を含む初学者を対象に、予備知識や主要な論点を分かりやすく示してくれそうな本をあたり、「これは」と浅慮する何冊かをご紹介することにしました。これにより、「働き方改革」とは何か、またそれにまつわる様々なテーマについて、これまで以上に関心をもっていただくきっかけとなれば幸いです。

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)最初にご紹介するのは、濱口桂一郎著、「新しい労働社会 ― 雇用システムの再構築へ」(岩波新書)です。この本を、まず始めに読んでいただきたい。一度読んだ方でも、ときどき原点を振り返る必要ができたとき、また、さまざまな論点の関係性を整理したいときなどに、リファレンスとして再度目を通していただくと、そのたびに理解を深めてくれる教科書のような本です。新書というボリュームも座右に置いて負担になりません。

さて近年、雇用をめぐる問題はさまざまなキーワードでメディアをにぎわしてきました。たとえば、濱口氏が本書の執筆時点(2009年)でとりあげている「名ばかり管理職」、「ホワイトカラーエグゼンプション」、「偽装請負」、「派遣切り」といった言葉につづき、「ワーキングプア」、「正規社員と非正規社員の格差」、「長時間労働」、「ブラック企業」、「解雇規制」、「ワーク・ライフ・バランス」ときて、今回の「働き方改革」など、あげていくときりがないほど次々に言葉が出てきます。加えて、国会等では「規制緩和 vs 規制強化」といった単純化した図式の議論も見られました。

本書は、これらのさまざまな労働問題の論点を、読みやすい簡潔な文章ですっきりと整理しています。どのように整理するかというと、現在の日本型雇用システムについて、それができあがった歴史的な背景をひもとき、また、欧米型の雇用との国際比較を試みます。濱口氏は労働官僚ですが、日本型雇用システムの問題点に気づき、独自の労働政策論を掲げ、とにかくきまじめに課題解決に取り組んでこられた。そのような印象を行間から感じます。

濱口氏はまず序章で、問題の根源がどこにあるのかを指摘します。もっとも基本的で重要な部分です。頭のいいひとであればここだけ読み、あとは斜め読みでよいくらいです。日本の雇用契約は「メンバーシップ契約」であることが原点です。正社員とは、労働者であるだけでなく、会社の「メンバー」になった人を指します。読者の中には、江戸時代のたとえば土佐藩における上士(上級武士)のような身分、またはメンバーシップをイメージする向きもあるでしょう。また、これが女性に不利な、というかそもそも女性を主対象と考えていなかった仕組みであることは一目瞭然です。

事実の指摘がつづきます。この契約における最大の特徴は、「職務(job)」という概念がまったくないか、きわめて希薄なことです。欧米では基本的にあらゆる仕事において”job discription”が明確となっており、その”job”にもとづく雇用契約を結びますが、日本では「職務(job)」を決めず、その人をメンバーにします。そして、会社の中では、たとえば不景気のときにある特定の職務がいらなくなれば、その人たちを別の職務に移したりしながら、長期にわたってメンバーシップが維持されるようにします。

people-19日本型雇用システムとは、この、「職務(job)」を決めないメンバーシップ契約型の雇用システムを指します。うえの一例で見たように、日本型雇用の特徴といわれる長期雇用も、また年功賃金や企業別組合も、加えて男女間の格差まで、この契約上の性質から論理的に導かれたものです。この雇用システムが、日本のほとんどすべての大企業と、少なくとも一定範囲の中小企業に普及しつくし、1980年代までの日本の経済状況にほど良く適合しました。しかし、90年代以降は、職場の現実からしだいに、そして大幅に乖離した仕組みとなっていきます。

このあと濱口氏は、第1章から3章にわたり、新書に許されるボリュームで各論を展開します。個別テーマのように見える問題も、序章の前提とつながっていること、また個別テーマ同士もつながっていることなどが分かってきます。じかにお読みいただきたいと思います。濱口氏の立場は、現在の雇用システムにいくら問題があるといっても、性急なスクラップ・アンド・ビルドは国民各層にとって大きな混乱や不利益をもたらしかねないため、現実的で漸進的な問題解決、改革をはかるというものです。

さまざまなテーマの中で、もっとも扱いが難しいのは、安倍総理がほぼ約束したようになっている「同一労働同一賃金」の実現です。これは、新しい概念ではなく、EUにおける非正規労働規制の中核に位置する原則です。しかし、濱口氏も明言している通り、現行の日本型雇用システムにおいては論理的に成立していません。ほんとうの意味の「同一労働同一賃金」をもし目指すならば、「職務(job)」を決めないメンバーシップ契約型の雇用システムから、ほぼ完全に転換していく必要があります。それは必然的に超長期的な取り組みとなりますので、安倍総理の理解度、または真意が不明です。

第4章の「職場からの産業民主主義の再構築」で、濱口氏独自の見解が述べられます。多くの皆さんがすでにご承知のように、わが国では非正規労働者が全体の4割を超えたという現実があります。濱口氏は、この正規・非正規という労働者間の利害調整と合意形成に向け、「さまざまな困難があるにしても、現在の企業別組合をベースに正社員も非正規労働者もすべての労働者が加入する代表組織を構築していくことが唯一の可能性である」とうったえます。濱口氏のこの方法論に対し、リアリティがないと一蹴することはかんたんですが、混迷する雇用論議に一石を投じていることは確かです。

いったいだれが濱口氏の主張を嗤うことができるでしょうか。安倍総理の呼びかけを本気で受け止められない与党政治家、ミクロの対立構図に埋没しがちな野党、総論賛成でも各論ではおよび腰の企業経営者、組織率の退潮著しい労働組合、体系的議論が苦手なマスメディア、そして最大の既得権者である正規社員ひとりひとり・・・。それぞれが、日本型雇用システムの問題点について、見て見ぬふりをし、議論から逃げているようにさえ見えます。

今回は、安倍総理がはたを振る「働き方改革」のゆくえを注目していくときに、予備知識を過不足なくまとめており、入門書として最適な濱口氏の著書をご紹介しました。次回はさらに、「働き方改革」の本丸にせまる本を紹介したいと思っています。

「働き方改革」とはなにか その2 につづく。