「働き方改革」とはなにか

2016年9月26日、安倍総理大臣は国会演説のなかで、「一億総活躍の大きなカギは働き方改革だ。働く人の立場に立った改革、意欲ある皆さんに多様なチャンスを生み出す、労働制度の大胆な改革を進める」とあらためて述べ、長時間労働の是正や「同一労働同一賃金」の実現などを含む、実行計画のとりまとめが始まりました。

people-01この「働き方改革」について、いまのところ、国民や各界の反応はパッとしません。そのこころとして、単なるアドバルーンではないか、使われている言葉の意味がよく分からない、優先度の高いテーマとして考えたことがない、あるいは、自分の仕事に関係することは分かるが実現可能性に疑問がある、などといった声が聞こえてくるような気がします。

筆者は3年ほど前に長くつとめた会社を定年退職し、いまは自称「自由業」です。ですから、「働き方改革」にはまったく関心がないと言っても、叱られる心配のない立場です。けれども、もしこの問題がほんとうに解決の道筋をたどることができれば、この国の経済の活性化はもとより、社会保障や国民の健康、少子化問題にまで好循環をもたらす可能性があると考えております。

今回もやっぱりアドバルーンに終わるかも知れないという心配も少しあるのですが、そうなって欲しくないという希望をより強く持っています。アドバルーンに終わらせないためには、安倍総理や内閣府に本気を貫いてほしいと意見を伝える方法もありますが、それと同時に、改革の受益者であり、かつ推進主体者にもなり得る多くの皆さまに、もっと「働き方改革」の真価に気づいていただくことが必要と思われます。

ただ、そのように大言壮語しましても、このちっぽけはサイトは「本」の紹介しかできません。そこで、とくに自分を含む初学者を対象に、予備知識や主要な論点を分かりやすく示してくれそうな本をあたり、「これは」と浅慮する何冊かをご紹介することにしました。これにより、「働き方改革」とは何か、またそれにまつわる様々なテーマについて、これまで以上に関心をもっていただくきっかけとなれば幸いです。

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)最初にご紹介するのは、濱口桂一郎著、「新しい労働社会 ― 雇用システムの再構築へ」(岩波新書)です。この本を、まず始めに読んでいただきたい。一度読んだ方でも、ときどき原点を振り返る必要ができたとき、また、さまざまな論点の関係性を整理したいときなどに、リファレンスとして再度目を通していただくと、そのたびに理解を深めてくれる教科書のような本です。新書というボリュームも座右に置いて負担になりません。

さて近年、雇用をめぐる問題はさまざまなキーワードでメディアをにぎわしてきました。たとえば、濱口氏が本書の執筆時点(2009年)でとりあげている「名ばかり管理職」、「ホワイトカラーエグゼンプション」、「偽装請負」、「派遣切り」といった言葉につづき、「ワーキングプア」、「正規社員と非正規社員の格差」、「長時間労働」、「ブラック企業」、「解雇規制」、「ワーク・ライフ・バランス」ときて、今回の「働き方改革」など、あげていくときりがないほど次々に言葉が出てきます。加えて、国会等では「規制緩和 vs 規制強化」といった単純化した図式の議論も見られました。

本書は、これらのさまざまな労働問題の論点を、読みやすい簡潔な文章ですっきりと整理しています。どのように整理するかというと、現在の日本型雇用システムについて、それができあがった歴史的な背景をひもとき、また、欧米型の雇用との国際比較を試みます。濱口氏は労働官僚ですが、日本型雇用システムの問題点に気づき、独自の労働政策論を掲げ、とにかくきまじめに課題解決に取り組んでこられた。そのような印象を行間から感じます。

濱口氏はまず序章で、問題の根源がどこにあるのかを指摘します。もっとも基本的で重要な部分です。頭のいいひとであればここだけ読み、あとは斜め読みでよいくらいです。日本の雇用契約は「メンバーシップ契約」であることが原点です。正社員とは、労働者であるだけでなく、会社の「メンバー」になった人を指します。読者の中には、江戸時代のたとえば土佐藩における上士(上級武士)のような身分、またはメンバーシップをイメージする向きもあるでしょう。また、これが女性に不利な、というかそもそも女性を主対象と考えていなかった仕組みであることは一目瞭然です。

事実の指摘がつづきます。この契約における最大の特徴は、「職務(job)」という概念がまったくないか、きわめて希薄なことです。欧米では基本的にあらゆる仕事において”job discription”が明確となっており、その”job”にもとづく雇用契約を結びますが、日本では「職務(job)」を決めず、その人をメンバーにします。そして、会社の中では、たとえば不景気のときにある特定の職務がいらなくなれば、その人たちを別の職務に移したりしながら、長期にわたってメンバーシップが維持されるようにします。

people-19日本型雇用システムとは、この、「職務(job)」を決めないメンバーシップ契約型の雇用システムを指します。うえの一例で見たように、日本型雇用の特徴といわれる長期雇用も、また年功賃金や企業別組合も、加えて男女間の格差まで、この契約上の性質から論理的に導かれたものです。この雇用システムが、日本のほとんどすべての大企業と、少なくとも一定範囲の中小企業に普及しつくし、1980年代までの日本の経済状況にほど良く適合しました。しかし、90年代以降は、職場の現実からしだいに、そして大幅に乖離した仕組みとなっていきます。

このあと濱口氏は、第1章から3章にわたり、新書に許されるボリュームで各論を展開します。個別テーマのように見える問題も、序章の前提とつながっていること、また個別テーマ同士もつながっていることなどが分かってきます。じかにお読みいただきたいと思います。濱口氏の立場は、現在の雇用システムにいくら問題があるといっても、性急なスクラップ・アンド・ビルドは国民各層にとって大きな混乱や不利益をもたらしかねないため、現実的で漸進的な問題解決、改革をはかるというものです。

さまざまなテーマの中で、もっとも扱いが難しいのは、安倍総理がほぼ約束したようになっている「同一労働同一賃金」の実現です。これは、新しい概念ではなく、EUにおける非正規労働規制の中核に位置する原則です。しかし、濱口氏も明言している通り、現行の日本型雇用システムにおいては論理的に成立していません。ほんとうの意味の「同一労働同一賃金」をもし目指すならば、「職務(job)」を決めないメンバーシップ契約型の雇用システムから、ほぼ完全に転換していく必要があります。それは必然的に超長期的な取り組みとなりますので、安倍総理の理解度、または真意が不明です。

第4章の「職場からの産業民主主義の再構築」で、濱口氏独自の見解が述べられます。多くの皆さんがすでにご承知のように、わが国では非正規労働者が全体の4割を超えたという現実があります。濱口氏は、この正規・非正規という労働者間の利害調整と合意形成に向け、「さまざまな困難があるにしても、現在の企業別組合をベースに正社員も非正規労働者もすべての労働者が加入する代表組織を構築していくことが唯一の可能性である」とうったえます。濱口氏のこの方法論に対し、リアリティがないと一蹴することはかんたんですが、混迷する雇用論議に一石を投じていることは確かです。

いったいだれが濱口氏の主張を嗤うことができるでしょうか。安倍総理の呼びかけを本気で受け止められない与党政治家、ミクロの対立構図に埋没しがちな野党、総論賛成でも各論ではおよび腰の企業経営者、組織率の退潮著しい労働組合、体系的議論が苦手なマスメディア、そして最大の既得権者である正規社員ひとりひとり・・・。それぞれが、日本型雇用システムの問題点について、見て見ぬふりをし、議論から逃げているようにさえ見えます。

今回は、安倍総理がはたを振る「働き方改革」のゆくえを注目していくときに、予備知識を過不足なくまとめており、入門書として最適な濱口氏の著書をご紹介しました。次回はさらに、「働き方改革」の本丸にせまる本を紹介したいと思っています。

「働き方改革」とはなにか その2 につづく。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。