「子どもの貧困」に向き合う

今回は、ここ10年で、筆者がもっとも衝撃を受けた本をご紹介します。阿部 彩 著、「子どもの貧困 ― 日本の不公平を考える」(岩波新書)です。上梓された2008年は、日本社会で「子どもの貧困」が発見された年となりました。その後、この問題に関して、政治や社会に小さくない変化が生み出されていきますが、本書がそのことに最も貢献したと評価する方は多いでしょう。もちろん筆者もそのひとりです。

let-a-child-bench本書は、日本の子どもの貧困率が先進国の中で高い位置となっているばかりか、近年、悪化しつつあることをずばりと指摘しました。先進国で現在用いられている貧困の指標は「相対的貧困」と呼ばれるものです。日本の子どもの相対的貧困率は90年代から上昇し続け、1995年に12.7%、2004年に14.7%となり(本書執筆時点のデータ)、2012年にはさらに16.3%(6人に1人が貧困。厚生労働省・国民生活基礎調査)と上昇しているのです。阿部氏がこうしたデータを、本書で初めて人々に指し示し、ねらい通りの反応を引き起こしたわけです。

それまで、誰もが「日本社会に貧困問題はない」と考えてきました。「貧困」という言葉から、多くの人が想起するのは「食べものがない」といった、日本の戦争直後や発展途上国の「絶対的貧困」のイメージでした。「日本は成功し、先進国のリーダーになった」のであり、「現代の日本で子どもたちが貧困であるはずはない」という思い込みがあったため、「そこにある貧困」が見えておらず、社会的問題として存在しなかった。そこに阿部氏が、大きな発見と気づきをもたらしました。

(貧困率の算出方法は省きますが)相対的貧困とは、人がその社会で生活するために通常得ているものが得られない・できることができない、という状況を指します。たとえば、経済的理由で他の子どもと交遊関係を保つことができない、同じ教育を受けられないとか、同じ土俵で就職活動ができないといった問題が高い確率で起こります。「家は貧しかったが、頑張って奨学金で大学を出た」という例があるとしても、機会の公平を証明しているわけではありません。

子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)また、阿部氏はたとえば、修学旅行に数万円の費用がかかるという状況を指摘します。それだけ見れば贅沢品のようですが、学校では修学旅行へ行くことを前提にカリキュラムが組まれており、もしクラスの中で一人だけ、お金が出せないために修学旅行に行けないとなれば、その子の疎外感や自分が不幸だと思う感情はいかばかりでしょうか(想像してみて下さい)。修学旅行は、すべての子どもにとって必要な機会といえます。

皆さんは、高校進学について、教育費が工面できない場合は諦めるのも仕方がないとお考えでしょうか。今の日本社会では、高校進学率は1974年以来、90%を超えて高原状態にありますので、国民目線でもけして贅沢ということはなく、必要最低限の教育というべきでしょう。したがって、修学旅行のケースと同様に、経済的理由で高校進学の機会が失われている子どもたちは「貧困」であると考えねばなりません。これが、相対的貧困の考え方です。

阿部氏は、「子どもの貧困」はごく一部の特殊なケースではなく、この日本の、すべての人の身近にある問題としています。たとえば学校現場では、不登校、学力の低下、集金が滞る、空腹による無気力、暴力的な態度など、さまざまな問題が起きていますが、教員にはそれらの背景に「貧困」があるかもしれないと想像することが必要と指摘します。

参観日にまったく来られない家庭があるとすると、参観日だけでなく日常的にも、子どもに手をかける時間がなく、勉強も見てあげられず学力が落ちたり、満足な食事も与えられず給食が栄養の命づなになっているのかもしれません。健康についても、自己負担分が払えないとか、病院に連れて行く時間がないといったケースもあり得ます。そこに「貧困」の可能性があることを、つねに考えてほしいと訴えます。

children-002人口が減少していく日本で、子どもたちがいかに大切な宝であるか。これほど明白なことはないにも拘わらず、子どもの6人に1人が貧困状態にあるのです。阿部氏は、そのことの深刻さについて、次のように訴えています。

子どもが自己肯定感を持つためには、乳幼児期に特別な大人と一対一の関係を持つことが大切です。いわゆる愛情を知らずに育つということが、人格形成に多大な影響を及ぼすわけです。子どもは、自分に愛情を注いでくれる人がいることで安心感を得て、自分の存在の肯定につながります。少し大きくなると、たとえば積み木のおもちゃで何かを作り上げた時にほめられる経験をすると、達成感を得て、チャレンジ精神ややり遂げる意欲を身に付けていきます。

しかし、貧困家庭に育つ子は親が生活に追われていて、子どもとゆったり接する余裕がないため、このような経験がほとんどないままに育ってしまう傾向があります。その結果、そういう子と恵まれた環境で育てられた子では、小学校の入学時点で差がついています。自己肯定感が低く、学力も低いまま「どうせ自分は頭が悪いから」などと自己否定してしまいます。不利な立場で頑張る子もいますが、教育環境が整っていない上に、進学できるかどうかわからないなどの不安な要素があれば、「やっても仕方がない」と希望や学習意欲を失っていきます。

学力格差については、したがって、できるだけ早い段階から丁寧に対応することが望まれるわけです。そうした手当てを受けなかった子どもたちも中学校は卒業できますが、いざ高校進学となったときに「これ以上勉強なんてしたくない」となるケースが多々あるとのことです。その子自身の将来の選択肢を増やすためにも、またその先の貧困の連鎖を断ち切るためにも、最低限、子どもたちの高校進学を実現させたいと阿部氏は訴えます。

「子どもの貧困」に向き合う その2 につづく。

投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。