〈仏教3.0〉でスッキりする! その5

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する4回目として、人々に向き合おうとする〈仏教2.0〉のアウトラインに触れてきました。その記事はこちらです。

両師は80年代後半に、米国で〈仏教2.0〉の現場に立ち、その後十数年間それぞれの道を辿ってから、2000年代半ばに相前後して帰国します。その頃、すでに日本ではテーラワーダ仏教の長老たちの本が相当数出版されたり、各地で瞑想指導や講演なども開かれたりと、〈2.0〉が遅ればせながら導入されつつありました。師らもすぐにそうした動きに参入し、葉山と鎌倉でそれぞれ実践指導を始めます。ところが、それから、〈2.0〉のやり方に従って自ら治療に励みだした人たちの多くが、うまくいかずに行き詰まってしまうという状況が顕在化してきました。両師の議論は、実は日本のみならず米国やミャンマーでも、指導に従って懸命に取り組んでいるのに行き詰まる人たちが大勢いる、つまりそれは〈仏教2.0〉の限界を意味するのではないか、という重大な問題提起へと進んでいきます。

一照 ・・・実はアメリカの禅堂にも、ヴィパッサナーをかなりやり込んだ人がけっこう来ていました。かれらの多くはかつては坐禅をやっていたんだけど、禅が「ただ坐れ」と言うだけであまりにも説明がないし、修行についても曖昧模糊としていて何をやっているのかわからなくなってきて、ちょうどそのころテーラワーダがアメリカに広まってきて、それでヴィパッサナー瞑想に乗り換えた人たちなんですよ。こっちのはうがちゃんと言葉で説明があって理解できるし、何をどうするかということがはっきりしているって。でも、そういう人たちがまた坐禅に帰ってきている。面白いなあと思っていろいろ聞いたら、みんなこう言うんですよ。「ヴィパッサナーをやればやるほど『自分』が重く感じられる」って。そりゃそうですよね。良道さんが前にも言ってるように、この自分が頑張って、ヴィパッサナーをしようとしてるんだから。・・・

良道 ・・・自我の強烈なアメリカ人だからこそよりシビアに表現されてわかりやすいんだろうけど、そこがまさに「仏教2.0」の本質的限界なんですよ。日本人の場合はそれほど自我が前面に出ていないからアメリカ人ほど目立たないんだけど、構造としては同じ行き詰まり方だと思います。というのは、わたしのところに来ている「仏教2.0」の人たちも、この「自分」が瞑想している限りどんなに頑張っても新しい地平が開かれてこない息苦しさを感じています。一照さんが会った人たちが「自分が『重く』感じられる」と言ったのと同じ感じだと思います。・・・ (第5章より。下線は筆者)

Photo by Rockrangoon – A pagoda at the peak viewpoint of Mawlamyine, Myanmar (2012) /CC BY-SA3.0

このように述べる山下師自身も、かつては瞑想修行で行き詰まっていたことを、第4章ほかで詳しく述懐しています。そもそも師は「君の病気は思いの過剰が原因だよ、だから思いの手放しを修行しなさい」と内山興正師に諭されて修行を始め、長い間、一生懸命取り組みますがうまくいきません。そして、40代の半ば頃に「思いの手放し」と「マインドフルネス」の関係に着目し、すべてを捨ててミャンマーに渡り本格的な研鑽を積みますが、そこから先もけして平坦な道ではありませんでした。師が見たのは、千人が修行する本場の瞑想センターのようなところでコース完了者はわずか十人程度、修行の成功率1%という現実だったのです。山下師はその後4年がかりで行き詰まりを乗り越えますが、そのことではっきりと〈仏教2.0〉の限界が見えた、ということでもあったのです。

もういちど先の引用部分に戻りますが、両師が述べていることは、(自分として)瞑想の技術やメソッドを徹底的に学ぼうとか、(自分で)「さあ瞑想するぞ」と意気込んだり、あるいは頑張れば頑張るほど、むしろ行き詰まりやすいということのようです。問題点がどこにあるのかといえば、この「私」・「俺」・「自分」が瞑想しているから、必然的に行き詰まるのだと指摘しています。では、自分が瞑想するのでないとすると、自分以外のいったい誰が瞑想するのか、という不可思議な疑問が湧くことになりますが、そこへ進む前にまず、行き詰まりを感じつつ瞑想を続けている、この「私」・「俺」・「自分」とは誰のことか、その点をもう少し分析的に見ておきましょう。

「方法序説」 – ルネ・デカルト

「われ思う、ゆえにわれあり (“I think, therefore I am.”)」という、デカルトの命題があります。「自分」はなぜここにいるか、とそのように考えること自体が「自分」が存在する証明であるとして、主体としての自己を定式化しました。両師が上で示した「自分」とは、まさにこの近世哲学でいうところの「主体としての自己」にほかなりません。ただし両師の場合、英語を用いて誰にもわかりやすく伝えること(現代語への翻訳)を重視していますので、本書やほかの場所においても、「自分」=「思考(シンキング;thinking)する主体としての自己」=「シンキング・マインド(thinking mind)」という表現をよく使います。

わたしたちは普通(と言った場合、西洋人と日本人ではやや異なるかも知れませんが)、次のような人間観・世界観を持っているのが当たり前ではないでしょうか。つまり、わたしたち人間は精神と肉体が合わさった存在 ―― あれこれ一日中考えている思考の主体=シンキング・マインドと物質的な肉体とが組み合わさったものである。それ以外には何もない・・・と。もし「私」・「俺」・「自分」とは何かと訊かれたら、ほかに言いようがないですよと。
ところが(!)です。

良道 われわれはシンキング・マインドが自分だとずっと思い込んでいた。実は、われわれの親もそう思い込んでいた。われわれの小学校の先生も、大学の教授も職場の上司もみんなそう思い込んでいたから、だから当然われわれとしては、それが自分だと思わざるを得ないわけですよ。だけれども、それが自分だと思ってる限り、あまりにも辛いことが多すぎて、で、辛いから瞑想して幸せになろうと思ったんだけど、瞑想もシンキング・マインド主体でやっちゃうから失敗続きでここでも行き詰まる、というのがどうしよううもない現状だと思うんですけどね。

一照 僕らがずっと話してきている見聞覚知の主体は、要するにエゴとか我とかと言われているものなんだね?普段われわれが「俺、俺」と言っているやつ。 (第5章より)

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その6」 につづく。


〈仏教3.0〉でスッキりする! その4

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する3回目として、〈仏教1.0〉に分類される日本仏教のあり方などに触れました。その記事はこちらです。今回は、〈仏教2.0〉の主題へと進めていきます。

Photo by *christopher* – Čeština: Tibetský dalajláma v roce 2012 /CC BY 2.0

両師が渡米し、マサチューセッツ州の坐禅堂に赴任した80年代後半には、米国における仏教はいわば成長期に入っていたと思われます。その頃すでに、ベトナム出身のティク・ナット・ハン師(Thich Nhat Hanh)が米国で活動を始めてから20年余りが経過しており、また、ダライ・ラマ14世がノーベル平和賞を受賞したのは1989年のことでした。多くの人々は組織化された宗教よりも、スピリチュアルな個人的体験に魅了されるようになっており、とくに、禅仏教が教える坐禅やテーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想は実践が容易で、心を癒し活力を与えるものとして人々を引きつけました。そもそも個々人を重視し、人生を苦しみであるとしつつも同時にその苦しみから脱する方法を説く仏教の性格が、人々の求めによくフィットしたのです。

禅への鍵 〈新装版〉米国で仏教が普及していく段階のひとつの特徴として、本書でも、レベルの高い出版物の貢献を指摘しています。仏教に引きつけられる人たちの多くは高学歴で、中流以上に属しており、かれらは非常によくそれらの本に目を通し、仏教の哲学的次元を把握しようさえしました。藤田師はそれらの内いくつかを翻訳しており、代表的なものに、ティク・ナット・ハン著『禅への鍵(Zen Keys: A Guide to Zen Practice)』(2001年・春秋社刊、2011年に新装版)という本があります。このあたりにつき、藤田師のコメントを少し引用します。

一照 ・・・この三十年の間に、仏教の本が英語圏でものすごい勢いで増えてきている。そして、内容のレベルも上がってきていると思います。(中略)日本じゃ絶対書かれないようなスタイルで、かなり高いレベルで仏教をちゃんとわかって、いかに仏教がわれわれの人生をよい方向に変容させることができるか、ってことを自分の言葉でストレートにわかりやすく語っている本です。僕がこれまで日本語に訳してきたようなのはそういう本だと思ってるんだけど、とにかく優れた仏教書がどんどん増えてきていることは、間違いないと思うんです。われわれはそういう本の助けを借りて、もう一回英語で仏教をゼロから学び直したということが大きい。(中略)その作業を通して、自分の甘い理解のところなんかにあれこれ気づくことができた。・・・(第2章より)

Photo by Duc (pixiduc) from Paris, France – Thich Nhat Hanh in Paris (2006) /CC BY-SA 2.0

日本で修行した曹洞禅を伝えるために渡った米国で、両師は、日本国内では見たり聞いたりすることのなかった様々な仏教に遭遇します。山下師の場合、そうした中で最も強烈なインパクトを受けたのは、ティク・ナット・ハン師が自著の中で繰り返し語っている「マインドフルネス (mindfulness)」という言葉でした。当時の山下師とすれば、「マインドフルネス、いったいそれはなんだ?そんなもの日本では習っていないぞ」という感じでした。山下師はその後、藤田師と別々の道を歩むことを決め、イタリアを経由して1992年に帰国し、1995年にオウム真理教による事件で衝撃を受けた直後のある時期に、来日したハン師と実際に膝を突き合わせて話をする機会を得ます。藤田師もそこに、ハン師の通訳として付き添っていました。

良道 ・・・噂には聞いていたけれどもマインドフルネスを実際に生きるというのはこういうことなのか。それを目の当たりにして、どうもマインドフルネスというのがわたしのそのころの行き詰まりを打破してくれる鍵になるのではという気がしてきたのです。(中略)ティク・ナット・ハン師に実際にお会いすると、この方がご自分の思いから自由になっているのはすぐにわかりました。ハン師が”思いの手放し”を完壁にできているのは、その教えの中心であるマインドフルネスの実践をしているためではないのかな、そう思ったのです。・・・(第3章より。”思いの手放し”は山下師に得度のきっかけを与えた内山興正師の言葉。””は筆者。)

山下師はその後、マインドフルネスを本格的に深く学び実践したいということから、テーラワーダ仏教の瞑想に取り組むのですが、2001年にはとうとう「マインドフルネスの語源である『サティ (sati)』を真正面から、しかもシステマティックに修行している」本場のミャンマーに渡ることになります。対談はこのあたりから、山下師が長期にわたる現地修行を通じて、〈仏教2.0〉の核心に迫り、さらにその先で見出したものは何か(3.0のヒント?)という佳境に入っていくのですが、そこは本書の対談そのものを是非じっくりと堪能していただければと思います。

ここでは、〈仏教1.0〉と〈仏教2.0〉はどこがどう違うのか、という点を筆者なりに簡単に見ていきたいと思います。両師は、渡米して以降、新たに目撃・体験した仏教を〈2.0〉として括ることになるのですが、何をもってバージョンがはっきり違うと判断するのでしょうか。

一照 ・・・僕らが経験したアメリカの仏教にしてもピルマの仏教にしても、日本の主流の仏教とはずいぶんテイストが違っていたよね。(中略)
良道 やっぱり一番大きな違いは、アメリカやビルマで出会った人たちは自分自身の心の問題を仏教を通して真剣に解決しようとしていたということでしょうね。これが「仏教2.0」の特徴の一つ。

一照 ・・・僕らがアメリカに行って、何かとても新鮮に感じたのは、その喩えで言うと、かれらは医学を信じて医療行為を一生懸命やって、病気を本気で治そうとしていた、それに感動したということになるね。
良道 その通り。それに加えてわたしがビルマで感動したのは、この喩えの延長で言うと、社会全体が医学を深く信じていて、医者や看護師の働きにものすごく大きな期待を寄せてみんなでそれを支えているということ。そして医者や看護師さんたちもその期待に応えるべくものすごく努力しているということでした。(中略)わたし自身それによって救われた一人なので、もういくら感謝してもし足りないぐらいなのです。
一照 そういうのが本当の意味での「仏教国」のあり方だと思う。日本の仏教はどうしたらそういう方向に転換していけるんだろうね。 (第5章より)

Photo by Christophe Menebœuf – Buddhist statue in the former capital city of Polonnaruwa in Sri Lanka (2009) /CC BY-SA 3.0

両師は、現在の日本仏教のあり方を「医療行為が行われていない不思議な病院」に喩えて〈仏教1.0〉としました。その喩えの一つの証左になりますが、僧侶も精神科医も大勢いる日本で、20代から40代前半の死亡原因の第1位が「自殺」であることはご存知でしょうか。悩み苦しむ人々に対して、〈1.0〉が手を拱いていることは明らかです。その日本と比較して、たとえば、スリランカ出身で長年、日本で瞑想指導を行っているアルボムッレ・スマナサーラ師は、師の母国では精神科医が必要とされず人数も少ない。それはつまり「需要がないんです。仏教の世界だから」と、僧院がほとんどの悩み・苦しみを解決していることを自著で紹介しています。(『生きる勉強』;サンガ新書)

また、米国においても、銃で多くの人が死ぬことは別問題として、瞑想の医学的効果が一般的にも評価され、宗教的な環境においてばかりでなく、病院やセラピーオフィスといった場所で実践されていることなどが各所で伝えられています。両師が見た日本以外の現場、アメリカの禅センターや、ミャンマー、スリランカにおける仏教の僧院などは、喩えではなく、まさにある種の医療現場として機能しており、両師はそのことに新鮮な驚きや感動を覚えたわけです。そして、人々の苦しみや悩みに正面から向き合い、瞑想指導などを通じて積極的に対処している仏教を、〈仏教2.0〉と括ることにしたのです。

次回は、〈仏教2.0〉に惹かれ、実践する人たちの多くが、何かの理由でうまくいかず行き詰まってしまう、という重大なポイントに触れていきます。一体どういうことでしょうか?

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その5」 につづく。


〈仏教3.0〉でスッキりする! その3

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する2回目として、日本仏教の厳しい現実などについて触れました。その記事はこちらです。

The main hall of Antaiji Temple at Hyōgo Prefecture, Japan (2007) /CC BY SA3.0
http://en.wikipedia.org/wiki/User:Sendaba

2歳違いの両師はともに在学中、若くして発心(ほっしん)し、兵庫県にある曹洞宗の修行道場・安泰寺で出会い、1983年に出家しています。このお二人と、平凡な会社人生を選択した筆者との間に、同世代という以外の共通点はないのですが、筆者としてはなぜか両師に親近感を覚えることがまことに不思議です。あえて考えてみると、筆者の実家が曹洞宗の檀家であること、また80年代後半に、両師がマサチューセッツ州の坐禅堂に修行の場を移していたのと同じ頃、筆者も米国に赴任中だったという些細な共通項は見つかりました。他に何かあるとすれば、この歳になって、ようやく仏教に向き合いつつある筆者に、出家という生き方をリアルに証明している同世代の二人が眩しく映っている・・・といったところでしょうか。

両師は日本で6年、米国で3年間、共に修行しました。その後、藤田師は17年半という長きにわたって米国にとどまり、禅僧として坐禅指導を続け、2005年に帰国してからは神奈川県の葉山で坐禅会を主宰しながら、曹洞宗国際センター所長という任務に就いています。一方の山下師はイタリアを経て一旦帰国し、さらに思うところあってミャンマーでテーラワーダ仏教の比丘(出家修行者)として研鎖を積んだ後、2006年から鎌倉を拠点に、師独自の「ワンダルマメソッド」を国内外に向け教えています。二人は20代後半で一緒に修行を始め、途中から別々の道を歩み、60代近くになっていよいよ、お互いの辿った道を回顧・検証する機が熟したことを自ずと察知したわけです。本書によって、そうした”因縁”が誰にでも見える形となりました。

アップデートする仏教 (幻冬舎新書)二人は対談というスタイルを活かし、仏教についてそれぞれ30年間に身をもって体験し、学んできたことを時系列的に振り返り、お互い丁寧に突っ込みをいれながら検証していきます。全体構成や着地点は事前に調整されているとは思いますが、議論はけして急ぐことなく、読者に優しいペースで進められます。加えて、大乗仏教とテーラワーダ仏教といった既知の分類をただ単に深掘りするのでなく、「バージョン」の違う3つの仏教というコンセプトを核心に据え、それらの本質的・原理的な違いをスリリングに暴露していきます。両師による仏教修行の軌跡には目をみはりますが、さらに両師は、わたしたちにもわかるように、その収穫のエッセンスをわずか一冊の新書に(!)言語化してくれました。ひとりの”衆生”として有難い限りです。

本書で、両師が日本仏教のあり方=〈仏教1.0〉について言及している部分を、以下に少々引用させていただきます。わたしたちが日頃薄々感じていたことを、「こういうことじゃないか・・」という感じで直截簡明に語っています。

一照 ・・・どうやら日本の仏教の主流においては、仏教を教える人も学ぶ人もまともに仏教のメッセージを信じていないみたいだね。建前としては信じているようにふるまっているけど、本音のところではまったく信じていない。・・・(第1章より)

一照 ・・・日本の仏教は、一言で言うなら「形骸化した仏教」となるんじゃないか。形骸化というのは、仏教が自分の病気を癒す力を持っている優れた医学であることを本当は信じていない、だからその医学を実際に実行することはしないままに、表面的な形で仏教の言葉や儀式や習慣が社会の中で流通している。こういう仏教のあり方を僕らは「仏教1.0」というくくりで呼ぶことにしたんだよね。
良道 はい、「医療行為が行われていない不思議な病院」という倫えを使いました。それはあまりにも大きな損失を日本社会に与えています。なぜなら「病人」がこれだけ多くて、「治療」を必要としている。それなのに大きな敷地と建物を持った「病院」が、病人たちに治療を与えていないというのは、あまりにももったいなさすぎませんか?・・・(第6章より)

両師は「そこまで言って大丈夫なの」と周囲が心配するほど激しい表現で、〈仏教1.0〉を一刀両断にします。歴史を振り返ってみると、伝統宗教への挑戦という局面では常にラディカルで危険な言葉が飛び交い、時には暴力さえ生じたことを思い出しますが、さすがに現代の日本ではあり得ないことです。とくに両師においては、人品骨柄卑しからずという点はもとより、かれら自身がかつてそこから多くを学んだ1.0の巨大な蓄積を評価し、また1.0には(このあと出てくる)2.0の実践要素が欠落していたにせよ、3.0へとジャンプする(アップデートする)潜在能力があることを認めているからです。現に、藤田師はこれまでと同様、曹洞宗の一禅僧として3.0に取り組んでいく姿勢を明確にしています。

一方の1.0に生きるお坊さんたちとすれば、確かに、自分たちのしていることを否定され、タコツボのような環境に閉じこもっていると言われては辛いかも知れません。しかし、両師が日本を飛び出し、海外の現場で実践してきたようなことも、1.0の向こう側から眺める景色全体も、おそらくこちら側の想像力を超えているだろうということは察しがつくし、二人の言葉が持つ圧倒的なリアリティや迫真性を前にして、受け入れ拒否の態度をとることの方がむしろ難しいでしょう。またかりに、”仏教をアップデートする”ことに対し抵抗を覚えてしまうにしても、まずは、仏教と向き合う”自分たち自身を変える(=アップデートする)”ことは可能だと、少なくともそう理解できるはずです。

実際のところ、2013年秋に「アップデートする仏教」が刊行されて以降、その衝撃や波紋が国内各地に及ぶさまが観察されました。本書を読んだ、あちこちのやる気のあるお坊さんや在家修行者の人たちから、本書の中身を頭だけでなく、もっと心や身体の深いところで感得したい、具体的にはこの二人を直接呼んで話を聞いたり、禅や瞑想の実践指導を受けたいという要望が湧き起こり、ものごとがその通りに進み出し、そして今も着実に進行中であるとのことです。

次回は、両師が米国やミャンマーで目撃・体験した仏教、そしてここ十数年の聞に日本国内にも定着しつつあるテーラワーダ仏教のあり方、すなわち〈仏教2.0〉について触れていきます。

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その4」 につづく。


〈仏教3.0〉でスッキりする! その2

前回は、藤田一照師・山下良道師による「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)をご紹介する1回目でした。その記事はこちらです。

アップデートする仏教 (幻冬舎新書)一口に仏教と言いますが、仏教は世界に一つではなく、教科書的には大きく分けて3つの仏教が共存しています。すなわち(1)中国を経由して日本やベトナムに伝わった「大乗仏教」(禅はこのカテゴリー)、(2)スリランカやミャンマー、タイなどで広まった「テーラワーダ仏教」(上座部仏教や南方仏教とも呼ばれます)、(3)チベット仏教(日本の真言宗は教派的に近い関係)であり、この3分類は、経典の言語に基く分類(漢訳、パーリ語訳、チベット語訳)とほぼ一致します。さらに、3つの仏教は多くの宗派に分かれます。こうした著しい多様性を有するために、仏教が非常に全体像を理解しにくい宗教であることはたしかです。

したがって、ポイントはこれら3つの仏教の本質的・原理的な違いは何か、あるいは(この言い方は間違っているかも知れませんが)どの仏教が”より本来の仏教”なのか、といった素朴な疑問に対する答えです。仏教がまさに「群盲象を撫でる」の”象”のようなものであるなら、一般人が「何もわかっていない」のも当然であり、専門家の出番が要請されるところですが、どうやらその専門家たちの間でも「はっきりとは、わかっていない」らしいのです。そこで、藤田師が大乗仏教の禅僧(曹洞宗)として、また山下師がテーラワーダ仏教の比丘(出家修行者)として、本書のチャレンジングな対談に臨むことになりました。両師にはもとより、現代仏教の複雑な状況をクリアにひも解く必要があるという、強いモチベーションがあったのです。

さて、両師の対談の具体的中身に触れるまえに、少しだけ、足元の日本仏教の現状を確認しておきたいと思います。たとえば、外国人から「あなたは仏教徒ですか?」と訊かれたら、皆さんは何と応えるでしょうか。「宗教年鑑」(文化庁編・平成28年版)によれば、国内各地には7万5千以上の寺院があり、34万人の仏教教師(いわゆる僧侶を含む、宗教法人・団体所属の教師)、そして8,872万人もの信者(=広い意味の仏教徒)がいるとされています。したがって、あなたも「仏教徒です」と応えるのが妥当なのかも知れません。このように、わたしたちは客観的には紛れもない仏教大国に暮らしていますが、自ら仏教徒と意識することはあまりなく、私たち自身が「仏教離れ」についてほとんど無関心である・・といった一つの状況があります。

仏教は、6世紀半ばの伝来から21世紀の今日に至るまで、わが国の生活・文化・精神風土に深く根付いていることは事実です。初詣に始まり、季節の節目にお墓参りをし、旅先では由緒ある寺院を訪れ、あるいは自宅にお仏壇を祀り、いざとなればお葬式や法要をお願いしたりと・・・。わたしたちは、日々の暮らしの中で仏教との接点をそれなりに維持していますが、そのわりには、仏教の何たるかをはっきりと認識せず、モヤモヤさせたまま過ごしている気がします。また、そんなモヤモヤ感を晴らす機会として、空海や親鸞、道元禅師らの伝記を読んだり、仏教学者の少々専門的な本をかじってみたり、また、時にはご住職の法話を伺うといった体験もするのですが、残念ながら、モヤモヤはほとんど解消されません。これも一つの補足的状況です。

ちょっと話を戻すと、国民の「仏教離れ」はとうに明らか、というより、どんどん加速しているように思われます。今まで世間体やしきたりで支払われてきたお布施も減り、ご存知のようにお坊さんを呼ばないお葬式(直葬)まで現れ、基本的には人口減少や地方の消滅と相まって、各地の「檀家制度」も遠からず破綻を来たすのではないか。そのような心配があります。仏教界の中枢では密かに深刻な危機感を抱いているであろうと、容易に想像がつきます。また、現場に出ている30代くらいのお坊さんたちは、もう日本仏教が今のまま続くのは無理だということを肌で感じたうえで、必死にサバイバルを模索しつつある・・・。これらが、日本に限った仏教の厳しい現実の姿と言えるでしょう。

そもそも日本は今、社会の分断や少子高齢化など、解決すべき多くの問題を抱えています。心を重くするニュースが日々もたらされ、わたちたちの閉塞感は一向に晴れる気配がありません。そうした中で、仏教(やその他の宗教)が、本来どんな役割を期待されているかは言うまでもないことです。ところが、肝心の仏教界は、上で述べたような大混迷の状況に浸っている・・・。というところに本書が、比較的良いタイミングで、小粒ながら鋭い一石として投じられ、数年経った今(2017年の半ば)も波紋を広げ続けているのです。早々と本書に触れた読者からは、「これまでのモヤモヤが晴れて、スッキりした」という趣旨の感想が寄せられているそうです。筆者の読後感も、ニュアンスの相違は多少あるにせよ、似たような感じでした。

次回は、両師の出発点でありながら、その後に〈仏教1.0〉と分類されることになった日本の主流的な仏教のあり方について、もう少し触れてみたいと思います。

「〈仏教3.0〉でスッキりする! その3」 につづく。


〈仏教3.0〉でスッキりする!

この春、筆者の88歳になる母が他界しました。それから2ヵ月と少し経って、こんどは義理の弟と、その妻(つまり筆者の妹)を相次いで亡くすという、思いも寄らないできごとに直面し、自ずと人間の死生やその他諸々について思案に暮れるといった状況になりました。そのために、当ブログもしばらく開店休業であったわけです。実は、これらのできごとと全く関係はないと思うのですが、筆者はたまたま、去年の秋頃から「仏教」に関係する本を何とはなしに読みつづけていました。後から思うと、多かれ少なかれその読書効果によって、親族の死に際し、自分でも意外なほど平静を保つことができたのかも知れません。

アップデートする仏教 (幻冬舎新書)

さて、個人的事情を脇に置いて本題に入りますが、あらためて「仏教」に興味を持つきっかけを、筆者に偶然にも与えてくれた本があります。藤田一照師・山下良道師という二人の異色のお坊さんが、かれら自身の人生、そして現在とこれからの仏教について自在に語り合い、それを対談という形式のまま一冊にした「アップデートする仏教」(幻冬舎新書; 2013年9月刊)がそれです。本書を中心に、本書の議論を補完したり発展させている関連本のいくつかも併せて、それらのエッセンスをシリーズでご紹介していきたいと思います。なお、本書のコンセプトを巧みに象徴する「仏教3.0」という用語を、シリーズの表題に使わせていただくことにしました。

そもそも仏教を”アップデートする”とは一体何ごとでしょうか。まずそのタイトルを見て、惹かれる方もいれば、もしかすると眉をひそめる方もいらっしゃるでしょう。しかし一度ページを繰ってみるならば、両師とも只者ではないこと、普通のお坊さんと明らかに違うことにまず気づき、かれらが本音でじっくり語り合う尋常でない中身、その面白さに引き込まれてしまうでしょう。ただ、読者諸兄がどういう部分を面白く感じるかは、それぞれ微妙に異なるかも知れません。それは、仏教にどれくらい関心をお持ちか・そうでないか、あるいは、仏教とどれくらい実際的な関わりを持つか・そうでないかといった事情によるでしょう。

藤田師・山下師ともベテランの仏教者ですが、わたしたち一般人が何となく知る”日本の仏教界”においては、いかにも”異端”という呼称が似合っているように見えます。読者も、本書を読み始めるにあたって、両師のそうした表面的なプロフィールや印象を一旦受け入れるほかはありません。ところが(!)ある程度読み進めていけば、”世界”はかれらを異端と呼ばないこと、つまり日本の仏教界もやっぱりガラパゴス的であったのかと思い至ります。(筆者を含め)一般の日本人はグローバルな仏教世界をほとんど知りませんが、もしそこをヒマラヤ山脈に喩えるならば、かれらこそ、その最も高い稜線を先行するシェルパであるということに得心がいくでしょう。

本書の基本的性格は、仏教について一定以上の知識があるマニアックな読者(たとえば30代・40代のお坊さん)を想定し、仏教実践の新たな地平を指し示す一種のマニュフェストのようなもの・・・ではありますが、筆者のように「仏教について何もわかっていない」一般読者にも、単なる面白さだけでなく、「従来の仏教に対するイメージや枠を明らかに超えた」と形容したくなるような、爽快でダイナミックな革新性を感じさせてくれます。

また、自然体で行なわれたこの対談に、演出や作為的な部分はまるでないのですが、終盤に近付くと、読者(=観客)はまるで舞台のクライマックスを見るように、二人の静かな高揚感を共有できるかも知れません(本当に、カーテンコールしたくなるような)。

〈仏教3.0〉でスッキりする! その2 につづく。